Reuben Wilson

 

  「レトロ」という単語は、この10年間、いわゆる「アシッド・ジャズ」の、ポピュラーな形容詞になりました。あたかも、時を戻り、忘れ去られ商業的にも無視されたサウンドを新しく作るように、新しいジャズ愛好家は、70年代のグルーヴを現代のメッセージを運ぶ車として使います。私は、60年代後期と70年代初期にBlue NoteとPrestigeで録音した何人かのミュージシャンに、Soul Jazzの要約を承認するかどうかを尋ねると、たいていの人が好意的にうなずきます。何人かは、オリジナルのアーティスト(ほとんどのアーティストは、まだ見つけることができます。)で再度録音されるのがより理にかなっているといい、他の人は差し出された機会を得ることを考えており、パーティーに出席するための正式の招待状を必要としないと感じています。このようなプレーヤーの1人がReuben Wilsonです。


  Reubenは、GuruのJazzmatazz IIや、最近ではRargroovと一緒にやっています。彼は、イギリスのグループのPughなどとのプロジェクトの将来を考えています。「私は感謝しています。」とReubenは言っています。「私が何年か前に概念的にやっていたこと、例えばJazzとFunkのミックスなどですが、今のキッズは、その真っただ中です。それは、私たちが経済的な理由で、そのときにできなかったものを持っています。それは、少し変わってきていますが、これらの変更は、私も変えようとしていたことで、その時点ではできなかったことです。最初から心にあったものが、最近になって実現したようなものです。」  ReubenのBlue Noteへの貢献は、ゴールドレコードという資格を彼に与えたUs3リリースの成功と、彼のやり方の機会を増やすという形で役に立ちました。彼は、現在のHip-Hopersとのコラボレーションを絶対的に賛同しているベテランの一人になりました。「それは、うまく行きます」とルーベンは主張します。 「キッズは、音楽的に成長していますし、基本的に我々は、感覚的には知識の側にいるということで、非常に良いと思います。年上と演奏をするということは、良い経験であり、音楽のコンセプトと言う点で役に立つと思います。また、音楽に対してフレッシュですし。」

  Blue NoteにおけるReubenの大きなヒットのひとつが1969年のLove Bugというアルバムです。「我々は6時間でそれを録音しました」、と回想します。 「今日では、何週間か、何ヶ月を要します。というのは、オーディエンスはより広がり、作品に対してお金を使う価値がありますから。」70年代やそれ以前では、ジャズのオーディエンスは少なく、Richard 'Groove' Holmesの"Misty"のようなヒットはJazzのレコードからは、めったにありませんでした。製作やプロモーションのお金はありませんでしたし、結果として、Jazzのレコードは小さなマーケットと見られていました。たまに、ReubenのCadetのようなまぐれ当たりがあり、皮肉にもレーベルは破産しましたが、英国においてものすごい反響を得ることができました。"Got to Get Your Own"というシングルカットが、驚異的に流行りました。「それは、もし米国で英国のようにプロモーションをしていたら、米国でもものすごいヒットになっていたと思います。」

  Reubenのプロとしてのキャリアの大部分は、オルガンに集中しています。彼がピアノを含んだ演奏を行っているのは、ここ4、5年です。彼は1935年4月9日にOklahoma州のMoundsで生まれました。 しかし、すぐに、California州のPasadenaに引っ越し、そこで学校に行って、スポーツ選手になることを夢見ました。彼は、大部分において、独学のミュージシャンです。「私の母親はピアノをたくさん弾きました。そして私の父親は、歌をたくさん歌いました。でも、父は楽器は演奏しませんでした。私の姉妹はピアノを弾き、私の兄弟は、サックスを吹きました。私は、本当にたくさんの音楽に囲まれていました。」  Reubenのスポーツへの情熱は、彼をボクシングのリングに向かわせ、プロとして12戦し、10人をノックアウトしています。最終的にグラブをはずす前に、彼はヘビー級のゴールデン・グローブ・チャンピオンシップのファイナルまでいきました。「戦うことについて、一つ思っていることがあります。」とルーベンが警告します。 「勝つことはできます、しかし、そのうちだれかがあなたを倒すときがきます。それは、あまり楽しいことではありません。」  バンドリーダのJohnny Pope, Jr.を聴きに行った夜に、大きな新事実が彼のところにやってきます。「私がJohnnyに会った時には、彼はダンス音楽を演奏していましたが、私は音楽に打ち込んではいませんでした」、とルーベンが振り返ります。 「私は立ったままで彼の音楽に耳をかたむけていました。 そうしたら、彼は私に「演奏しますか?」と言ってきました・・・。私は「ピアノを少し弾きますが、グループで演奏したことは一度もありません。」と言いました。彼は、「Come on」と言いました。 それで私は演奏をし、すぐ後に何曲か交代で演奏しました。そして彼は私にオルガンを弾くことに興味があるかを尋ねました。私は「もちろんです」と言いました。 こうしてオルガンの演奏をするようになったわけです。」  Reubenが、オルガンのフィーリングを得るまでにそう長い時間はかかりませんでした。慣れるにしたがって、オルガンは心地よくなり、ピアノへの傾倒は薄らいでいきました。

  Billy LarkinとJimmy Smithによってインスパイアされ、Reuben WilsonはJazzとPopsを取り混ぜた演奏で、Los AngelesとLas Vegasで評判を高めていきました。彼とLonnie Smith、Charles Earlandなどが、ファンキーなR&BスタイルのJazzを生み出すきっかけとなったその時代のPopsにオルガンとしての舵を切り始めました。彼は、Grant Green、Sam Rivers、Lee Morgan、George Colemanなどの大御所と一緒にスタジオに入り、Blue Noteで何枚かのアルバムを録音しました。「彼らが西海岸にくることはほとんどなく、きたとしてもグループできていましたから、彼らと演奏する機会を得るというのが、とにかくニューヨークに来た理由です。」とReubenは、説明します。

  70年代が終わり、音楽業界において優勢になったと思われたのはディスコ・ミュージックでした。Reubenは1年半の間 Fatback と呼ばれるバンドで演奏しました。「それから、もちろん、私はJazzの世界に戻って来ました。」  その時代の他の多くのオルガン奏者と同じように、彼は、ポータブルなキーボードに移行しました。これは急速に「ハイテク」化していったビジネスの中で生き残るために必要な戦略でした。この結果として、多くのミュージシャンが追い出されたようになったり、所在が不明となりました。私は、Reuben Wilsonの軌跡を見失って、かれがどこに行ったのかと思っているうちに80年代は終わり、本物のジャズ・オルガンがゆっくりと復活してきました。Reubenにとって幸いにも、彼の音楽の熱狂的な支持がイギリスにおいて再浮上していました。彼らは、私たちの機先を制し、注目はReuben Wilsonだけではなく、"Big" John PattonやLonnie Smithにも注がれました。(私はこの注目が、どうにかして混乱時に消えてしまった人たちに与えられないかと思っています。)

  Reubenについては、Soul Jazzの復活は、Acid Jazzの発展にとって重要な要素であり、録音とライブの申し出は多く、大いに感謝しています。彼は、New YorkのクラブSOB's、New York Funkies (Hip Hop Bop - Meldac 30011)、Nat Nixon's Harlem All-Stars (Sax Rack Records)などに出演し、録音をしています。父権をもういとど取り戻す準備を進め、彼の音楽生活においてファンキーJazzを進めて行くとこで、もはや、Reubenの視界には、もやはなく、未来が見えています。Reuben、「Rock that Hammond」、我々はすぐ後ろについています。

Pete Fallico − 1996年8月
 

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