オルガンのエッセイ

Walk On The Wild Side
     ハモンドオルガンは楽器たり得るか − ある音楽評論家のひとりごとから
 
 私は、楽器には少しうるさいのであるが、近ごろ気になる楽器がある。それは、ハモンドという鍵盤楽器である。私の持論から言えば、楽器は弾く人によって音色を変えるものだということだ。よい例が吹奏楽器である。息の吹きかたによって音色が変わる楽器であり、初心者はまともな音を出すことすら難しい。ピアノにおけるタッチの差、ギターにおけるピッキングの差は指紋のように個人差がある。ドラムにしても手首のしなやかさやヘッドへのにスティックの当てかたや、当たった瞬間のスティックの跳ね返らせ方次第で音が変わるのである。これこそ楽器である。弾く人によって音色が変わるということは、その楽器を使用した時の表現の方法が、無限にあるということに等しいのだ。楽器は、想いを伝えられなければならない。そのためには、シーケンサーのようにメロディとリズムを奏でられるだけではだめだ。そんなことはそれこそ機械でもできるのである。音色が変わることなくして、突発的な生命力のひらめきなど伝えられるわけがない。

 この言い方がわかり難ければ「演奏者に同化できるもの」が楽器であると言い換えても良いだろう。楽器と演奏者は一つになり、演奏者の思いを具現化する手段になることができる。残念ながら楽器は、それだけではただの物体である。魂を入れるのは、あくまで演奏者であり、楽器には魂を受け入れるだけの潜在能力が必要とされる。

 では、なぜハモンドが気になるかだが、少し前までは、レスリースピーカーが生み出すアコースティック感だけではハモンドを楽器として認め ることはできなかった。 もちろん、ドローバーで2億通りの音色が出るなんていうのは、見当違いもいいところだ。なぜなら、設定さえすれば、子供だって同じ音が出せるようになっているのだから。しかし、私が楽器と して認めてもいい点が見つかったのである。それまでは、キーを押すことによって、単純に音のオン・オフが切り替わると思っていた。ところが、マルチコンタクト、日本語では多列接点というらしいのだが、これのために、まさしく弾く人によって音が変わるということが最近判ったからである。マルチコンタクトは演奏者の意思を反映し、かつ最高に微妙だ。かろうじて一握りのオルガニストがそれに気づいている。そしてその中のさらに一握りが猛烈な努力を伴って本当の使いかたをしているのである。その意味では、ハモンドは演奏者を厳しく選ぶ楽器である。ピアノやエレクトーンが弾けるからハモンドを弾けるという等式は成り立たない。 これほどまでに、長い時間をかけなければ、本質が見えてこなかった楽器が、かつてあっただろうか・・・

 かのJimmy SmithがWalk On The Wide Sideというアルバムを出しているが、最近私は彼がこのアルバムのタイトルでそのことを言おうとしているのでないかと思えてならない。確かに、Jimmy Smithの音は、他のオルガニストとは違う。

 私の楽器の定義にもう一つ足さねばなるまい。正当な理由をもって演奏者を選ぶものも、また楽器であると。
 
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