Back To Hammond Organ Company : Historical Tour

ご注意: このページのツアー部分は、フィクションです。
ただし、Hammondに関する写真と説明は現時点で
事実と考えられる情報を記述しています。

  2004年のある日、アメリカ人の友人A氏から連絡をもらう。彼の調査によるとHammond Organ Companyの建物は、ほとんどが当時のまま残っているという。さっそく、エアーチケットを入手し、Illinois州のChicagoへ向かう。Hammond Organ CompanyのあったEvanston周辺へはChicagoから車で30分もあれば着くことは、既に調べてある。Evanstonは、Chicagoの北15マイルにあり、五大湖の一つであるMichigan湖に面している。ChicagoからはUS-41を北にまっすぐ上がれば問題なく到着するはずだ。
 

  Chicago O'Hareエアポートでレンタカーを借り、さっそくChicagoに向かう。Chicagoへ向かう高速は、いつもひどい渋滞である。ラジオの天気予報によると、これからサンダーストームが来るそうである。アメリカのサンダーストームは、短時間に100ミリも降ることがあるので、道路が冠水しないことを祈るのみである。やっと、Chicagoの摩天楼が見えてきた。Chicagoのダウンタウンは、もうすぐである。ちなみに、このツアーの参考書は、Hammond Organ Companyの創立50周年を記念して出版されたTHE HAMMOND STORY "Fifty years of musical excellence."である。読者の諸君は、少し長いが日本語版を、まず読んでもらいたい。
  ChicagoからEvanstonに向かう途中に、Chicago Historical Societyが見えた。このページに、Hammond Organが1935年に作られたと書いてあるのを思い出した。Hammond Organ Companyが何らかの寄贈をしたと聞いているが、館内を全部見てまわるには二日必要と聞いているのでEvanstonへの道を急ぐことにする。

 
  ついにEvanstonに到着する。今のEvanstonは、Chicagoの喧騒に疲れた人たちが住む町だそうで、高級住宅地でもある。治安も良く、大学が近くにあるので学生も多く、活気がある。




 
  Laurens Hammondの最初の研究所があったのは、Evanstonの食料品店のロフトということになっている。これが、その建物であるが、食料品店は既になくなっている。ここで、Hammond Clockの開発、初期の製造が行われた。
  建物の前面は、当時とは異なるのかもしれないが、非常階段が建物の外にあることから、この建物が非常階段を設置することを義務化した消防法の改正以前に建てられたものであることは確かである。
  上の建物では、あまりに手狭なため、その後、この建物に移っている。この建物でも、Hammond Clockを生産していた。





 
  さらにLaurens Hammondの研究所は、この写真の5階建てのレンガ作りの建物に移っている。しかし、この建物は残念ながら、改築が行われ、当時の姿を残していない。この写真の駐車場部分にLaurens Hammond専用のエレベータがあり、彼はそのエレベータで毎日自分の研究室に通ったそうである。


 
5階建てのレンガ作りの建物は、現在は、このようになっている。若干昔の面影があるものの、かなりの変更が行われたようである。実は、この建物こそが、Hammond Organが1934年に発明された時の建物なのである。なお、この時点では、会社名はまだHammond Clock Companyである。その後、1937年に変更したHammond Instrument Companyを経て、Hammond Organ Companyに名前を変えている。
 
  1949年に、Hammond Organ Companyは、製造するオルガンの多様化に伴って、この建物に移っている。この建物は、高木庵のトップページでも使っている建物である。この建物の後部にプラントがあり、アメリカ生産のすべてのTone Wheel GeneratorとB-3、C-3などのモデルは、このプラントで生産された。


 
  ここで、すばらしいものを発見する。この写真は、上の写真の建物の向かって右側の搬入出口(英語で言うところのDock)部分であるが、以前の社名をはがした跡がのこっているのである。確かに、Hammond Organ Companyと読める。
  Hammond Organ Companyは、1985年(別の説では1986年)に倒産したのであるが、約20年経過した今でも、かつて存在したことを示していた。
  なお、Hammond Clock Company時代からHammond Organ Companyに至るまで、プラントを所有したことはなく、すべての建物は、リースだそうである。
  Hammond Organ Companyの最盛期には、5つ以上のプラントを持ち、従業員は米国だけで約3千人いたそうである。左の写真のプラントは、A-100とスピネットモデルを生産していたプラントである。高木庵が所有するM-3も、このプラントで生産されたことになる。


 
  この教会は、St. Luke's Episcopal Churchである。
  Laurens Hammondが、ヨーロッパからアメリカに戻ったあとで侍祭として使え、再び音楽との接点を持った教会である。この教会がなければHammond Organは、生まれてこなかったかもしれない。


 
  Hammond家のお墓であるが、Laurens Hammondは、ヨーロッパで亡くなったために、ここには眠っていない。
  Hammond家のお墓は、Graceland Cemeteryにある。




 
  ここまで見れば十分であろう。サマータイムで外は明るいが、既に夕刻である。Chicagoに帰ることにしよう。Chicagoに帰る途中で、Jeoyも演奏したことがあるGreen Dolphin Streetが見えた。Chicagoは、Chicago Bluesで有名だが、ChicagoのJazzもNew Yorkに劣らず良いと聞いている。今夜は、ChicagoのJazz Showcaseに行って、この話が本当かどうか確かめてみようと思う。
 
   

ご注意: このページのツアー部分は、フィクションです。
ただし、Hammondに関する写真と説明は現時点で
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コメント、誤りなどありましたらinfo AT hammond.jpまでお願いします。

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