Felix Cavaliere

  私のバイオグラフィには、いわゆる「ロック・オルガン奏者」は、常に入っていません。これについては謝ります。 そして私が「ジャズ・オルガン・スノッブ」であったことを認めます。これに対して深い理由はありません。なぜなら、個人的にも、そしてラジオでも言っているように、ハモンド・オルガンのコンソールに座るどのプレイヤーに対しても、私は感謝しています。つまり、ポップス、ゴスペル、クラシック、ブルース、ロック、どれに対してでもです。つまり、それくらいハモンドの音が好きだということです。

  私は、ずっと両手両足を使って演奏するプレイヤーに興味を持ってきました。つまり、左足でベースペダルを蹴って、右足でエクスプレッションペダルをコントロールし、左手ベースのテクニックを使い、右手でソロをとるという演奏です。たいていのロッカーは、これを行いません。また、こういう演奏をするプレイヤーは、少ししかいません。こういうプレイヤーは、ジャズ、ロックあるいはブルースにおいて非常に有能なプレイヤーであります。Stevie Winwood あるいはJon Loganが、この形態のすばらしい演奏者として、頭に浮かびます。

  しかしながら、ほとんどの場面において、ロッカーは、左手でガシャガシャとコードを弾きながら、右手で音作りをし、Fenderのベース・プレイヤーにベースパートを頼っています。

Wild Bill Davisによって生み出され、Jimmy Smithによって洗練された奏法(例えば、ベース奏者なしで演奏するという)で実際にロックを演奏した最初のプレイヤーは、Felix Cavaliereです。したがって、この偉大なミュージシャンのために、いくらかのスペースを割き、彼と私が最近話したことを皆さんと共有しようとしているのです。

  ロックンロールが革命的であった時代にFelix Cavaliere は、ニューヨークで育ちました。彼はオリジナルの音楽をオリジナルのミュージシャンが演奏するのを聴きました。

  彼の説明によれば、「学校の友達が、ロックンロールを聞いたことがあるかと尋ねました。私は、彼が言っていることが分かりませんでしたが、ニューヨークで育ったことは、幸運でした。今ではみんな知っていますが、ここでは、Alan Freedがロックンロールを立ち上げようとしていました。私がラジオのスイッチを入れると、ファンタスティックな音楽を聴くことができました。私に関する限り、それらは、R&Bに基づいたものであり、すぐに夢中になりました。私は、とりこになりました。私は、自分の耳が信じられませんでした。 Fats Domino、Ray Charlesのような人々・・・素晴らしい声を持っていた人たちとグループを聴けたことを、The Moonglows、The Flamingos、そして彼らと共に成長し続けました。私は、そこで育ったという意味で、地理的に非常に幸運でした」。

  Felixがハモンド・オルガンを知ったのは、黒人社会を通じてであり、幸運にもSoul Jazzのコンテキストで、聴いて、見ることができました。

  「私の友人がNew Rochelleの黒人街にあるこのクラブについて教えてくれました。でも、16歳であった私たちは、どうやって入るのかが分かりませんでした。我々はそこに行ってトリオを見ました。それは「The Mighty Cravers 」と呼ばれるオルガン・トリオでした。オルガン、サックスとドラマーがいて、私はまさしく、くぎ付けになりました。それまでの私の生涯で一度もこのような音楽を聞いたことはありませんでした。私はその時に私が聞いているものが何なのかがまったく分かりませんでした。そして私はその人が一体何を演奏しているのかを見るために、どんどん近くに寄って行こうとしました。でも、私にはそれを理解することができませんでした。彼はベースを弾いていました。彼はリズムを弾いていました。彼はリードパートも演奏していました。 そして、その音は、部屋中を駆け巡っていて、部屋のすべてのコーナーは、音に満たされていました。私は何が起こっているのか分かりませんでしたが、とにかく、調べてみなければならないと思いました。私はこの 演奏者と知り合いにならなければなりませんでした。」

好奇心がピークに達したときに、Felixは、この楽器について可能な限りのすべてのことを学び始めました。

  彼は、Manhattan行きの電車に乗って、ハモンド・オルガンを探し始めました。とにかくコンソールの前に座って、その音をどうやって得るのかということや、音がどこから出てくるのかを知りたいと思いました。

  「まあ、私がオルガンを見つけることができた唯一の場所は、ニューヨークのMacy's(訳注:デパートの名前)でした。私は、ハモンド自信がデパートで製品を売ることに決めたのだろうと想像しています。そして、中に入りました。そのとき、私は1ドル25セントをポケットに持っていました。オルガンは、特別な部屋の中にあり、ドアの向こうにありました。私は、家具としての側面もあるので、そうしているのだと思いました。ところが、一般のお客さんが中に入らないように、また入って傷つけないようにそうしていたのです。私は、最初にオルガンのベンチに座って、およそ3000ドルの価値がついた楽器のモンスターを見たときのことを鮮明に覚えています。

  そこのマネージャであったユダヤ人の紳士とは、何年間にも渡ってとても仲良くなりました。というのは、次のように彼に言われたからです。「最初にあなたがここに来た時に、とても重要な何かがオルガンに関係していると顔に書いてあったし、あなたは暖かい場所を探している他の子供とはまったく異なって見えた。」

  それで彼は親切にも、私を部屋の中に入れてくれたのです。私は、電源を入れようとしました。でも、電源の入れ方すら分からなかったのです。それで、彼が、どうやるのかを見せてくれました。誰でも、最初にハモンド・オルガンの電源を入れる時には、これはいったい何なんだと思うと思います。ご存知のように、スイッチ一つでというわけにはいきません。そんなわけで、何年間も、購入することはできませんでした。

  最初に私が手に入れることができたオルガンは、Mシリーズという小型のものでした。年月が経つにつれ、私は、少しはCatskills Mountainsで知られるようになりました。 私は公的に彼に感謝することが可能でした。彼が、私を中に入れてくれたからこそ、今の私があるわけですから。」

  有能なミュージシャンであるため、Felixが、JazzやRhythm and Bluesを演奏する他のミュージシャンから学んだり、見たりしたことを実践するのは難しいことではありませんでした。彼はハモンドについて多くのものを得て、すぐにCatskillsをはじめとして、いろいろな場所で演奏するようになりました。彼の音楽は、Rockにおいてハモンドの可能性を聞かせたり、感じさせるものでした。

  ある時、彼はThe StarlightersのオルガンをJoey Deeと一緒にやってもらえないかと頼まれたことがあります。(Joeyは、その時点では、Lowreyオルガンを使用していました。)

Felixは、Joey Deeと一緒にヨーロッパをツアーし、Beatlesや他のグループとGIGを行いました。
彼はこの新しいブリティッシュ・サウンドを正当に評価し、ハモンドの持つ生のスイングするパワーにもあこがれました。そして、このハモンドのR & Bパワーを、世界を一掃する新しいRockに吹き込みたいということになりました。

  「私は、私自身のサウンドを刻もうとしていたんですね。なぜなら、私がしたことは、私自信のオルガン・トリオを持つということから始めましたから。」とFelixは話しています。
60年代半ばまでに、FelixはThe Rascals − まもなく前代未聞の最も人気が高いロックバンドの1つになるであろう − をまとめ上げていました。

  「我々はすべて異なった地域の出身です。」とFelixは、彼のメンバーについて言っています。「米国の北東エリアの出身であることが、私の気に入っていることの一つです。一般には、同じ場所の出身だと思われていますが。我々はただ、「ええ、そうです」と、言ってきました。なぜなら、我々はすべての人のお気に入りの息子のようであったからです。私はNew YorkのVernon山の近くの出身です。 それはWestchester Countyです。1人は New YorkのRodchester 、そして2人がNew Jerseyの出身です。私たちは、異なる多くのルーツを持っていました。

  初めてRock'n Rollファンがロックオルガントリオを聴いたときです。「我々にはベース奏者がいませんでした。」と、Felixが回想します。「私は、そのステージで、足と、もちろん、手を使ってベースを弾きました。ライブ・コンサートでした。私は、私が最初に聴いたバンドを本当に模倣したのです。ジャンルは、Jazzではなく、Rock'n Rollであったというのが違いです。」

  Felixの耳は、Jazzオルガン奏者に対してオープンな状態のままとなっており、彼がJazzオルガン奏者と、その後増加するRockオルガン奏者との間を取り持つユニークで重要なきずなとなっていました。

  「私はさらに多くのことを学びたいと思いました。厳密に言えば、私の最初の経験は、Jimmy Smithの'The Sermon'であったと思います。後に、それは、Virginia Wolfや、Jimmyが手がけたビッグバンドとオーケストラの映画のサウンドトラックになります。これらは同様に、本当に私に影響を与えました。Jimmy McGriffも、Jack McDuffからも、影響を受けました。我々は、ステージで彼らと一緒に曲を演奏しました。当時、そのようなやり方は、珍しいものでした。聴衆は、それに合わせて踊ることができましたし、我々は少しばかりRockの要素を加えました。」

  ハモンド・オルガンは、このようにRascalsの音にとっては不可欠な要素だったので、Felixは、完全なハモンド・オルガンとLeslieトーンキャビネットのセットを持ってツアーしました。

  バンドの人気が世界的になったとき、レンタルが不可能な場所においては、飛行機や船でオルガンを運ぶことが必要になりました。「それは、当然の経験でした」と、Felixが言います。 「私は素晴らしいハモンド・オルガンを見つけたことがあります。それは、まだ私が所有していて、Hawaiiにあります。」オルガンは簡単に運べないものの一つです。したがって、そこで演奏するためには、だれかがオルガンを借さなければなりません。美しいハモンドは、家になければなりません。というわけで、私は考えました。オルガンの所有者は、そのオルガンを私が所有しなければならないということが分かりません。それで、私はそれを買って、そして家にそれを送りました。

  それはつま楊枝のように現われました。ええ、彼らはそれを落としてしまったのです。でも、保険会社が新品のキャビネットを手に入れてくれて、いまでも私はそのオルガンを持っています。今日でさえ、Felixは、彼がプレーするオルガンは、レンタルやファンが提供するホーム・オルガンを使用しています。

  (メモ:我々の良い友人である、BuffaloのSal Azzerelliは、FelixのGigのために、B-3を最近さらに1台購入しました。)

  Salは、Felixを感謝に値し、気の合うオルガン奏者であると評しています。)
  しかしながら、Felixは次のように付け加えています。「ツアーをして回ると、珠玉の1台に出会うこともありますが、もう二度と見たくないものにあたることもあります。」

今日、Felixは、彼の最も新しい「Rascal」のコンフィギュレーション、Felix Cavaliere's Rascalsと宣伝されていますが、で演奏します。たくさんの水が橋の下を流れていくように、メンバー変更、告訴、その他、我々の感知しないたくさんのことがありました。実際のところ、Felix Cavaliere自身は、Jazzオルガンの基本を身につけて、それをRockに適用したという点で、Jazzオルガン物語において重要なきずなとなっています。

  今日は、彼は立って演奏していて、正真正銘のオルガン奏者がとるポジションではなかったのですが。彼はプレーヤとして発展しており、オルガンにおいては、より個人的なスタイルを適用しています。通常足踏みポンプのように使用されるエクスプレッションペダルを使うことはなく、今日の演奏では、ドローバーをつかんで、ドローバーを調節することで同じ効果を得ようとしていました。

  Felixの貢献は、Rock'n Rollだけでなく、アメリカの音楽界においてハモンド・オルガンの提案者としても、伝説となりました。彼の人気はディスコ時代になって下がったかもしれませんが、その後、再確立されました。

  「再開の時」は60年代から70年代にかけて大きな変換点でしたとFelixは主張します。「それは、ひっくり返ったような状況で、多くの人々を目覚めさせました。彼らは、これがベビー・ブームのもたらした市場であると言い出しました。そしてそれは、いまでも続いています。」

  今日では、Felixは、サポートをしてくれる音楽コミュニティがあるテネシー州のNashvilleに住んでいます。彼は、最近彼が「ジーザスとのR&B(R & B with Jesus)」と呼んでいるものを含むいろいろなスタイルで演奏を続けています。
  彼の音楽的な趣味は明らかに広がりました。
  それが何であるとしても、Felix Cavaliere がそのオルガンのRockを継続するであろうことは間違いありません。

  Pete Fallico − 1998年6月
 
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