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レズリースピーカーとハモンドオルガン 噂、神話、真実および伝説 |
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ハモンドオルガンとレズリースピーカーに関する噂や伝説は、数え切れないくらいあるのですが、そのうちの代表的なもの約20を取り上げ、事実か否かについて解説しています。 |
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目次 |
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■ 1. ハモンドオルガンカンパニーのエンジニアであったドン・レズリー(Don Leslie)だが、ローレンス・ハモンド(Laurens Hammond)と衝突した時に、解雇又は退職した。 | ||||||
■ 2. ハモンドの発明者であるローレンス・ハモンドは、ミュージシャンではありませんでしたし、彼が発明したオルガンを演奏することができませんでした。(その上、音痴だったようです。) | ||||||
■ 3. 最初のハモンドオルガンはヘンリー・フォードに売られました。しかし、ディアーボーン(ミシガン州)のフォード博物館の火災によって焼失してしまいました。 | ||||||
■ 4. レズリースピーカーが導入されるまで、初期のいくつかのハモンドトーンキャビネットは、機械式のロータリートレモロシステムを持っていました。 | ||||||
■ 5. ローレンス・ハモンドは、レズリーと比べてしまうと、ハモンドのトーンキャビネットの音が悪く聞こえてしまうために、レズリースピーカーを好きではありませんでした。 | ||||||
■ 6. レズリースピーカーは、いつも「レズリースピーカー」と呼ばれていたのではない。 | ||||||
■ 7. ドン・レズリーは、レズリースピーカーの宣伝を決して行いませんでした。 | ||||||
■ 8. レズリースピーカーと接続されたハモンドオルガンを、ハモンドのサービス部隊が保守サービスすることはできませんでした。レズリースピーカーをハモンドの施設やオフィスに持ち込むことは、許可されませんでした。 | ||||||
■ 9. 何人かの経営幹部を含む多くのハモンドの人々は、ドン・レズリーを尊敬していました。また、彼らはハモンドオルガンカンパニーの反レズリー政策を支援しませんでした。 | ||||||
■ 10. 何年にも及ぶ二社間の激しい抗争にもかかわらず、ハモンドの管理部門は、秘密裏にレズリー社を手に入れようと切望しました。 | ||||||
■ 11. ドン・レズリーとローレンス・ハモンドは互いに憎みあっていた。 | ||||||
■ 12. ドン・レズリー個人のオルガンは、たくさんのレズリースピーカーを持ったハモンドキラーに違いない。 | ||||||
■ 13. ハモンドはモデルB4が、あまりにも良すぎたので、販売しませんでした。プロトタイプのB4は、開発され、隠され、そして、誰かが発見してくれるのを、今もなお待っています。 | ||||||
■ 14. ハモンドオルガンの、発売時期、生産時期、実際の入手可能時期については、明白な矛盾があります。 | ||||||
■ 15. ハモンドB3は、世界中で製造されたオルガンの中で、最良の電子オルガンです。 | ||||||
■ 16. 1955年に社長を辞任した後も、ローレンス・ハモンドは彼の影響力および権力をハモンドオルガン社に対して振い続けました。 | ||||||
■ 17. ローレンス・ハモンドは、後にレズリー・スピーカーに対する考えを変え、レズリーのモジュールをハモンドオルガンで使用することに合意しました。また、ハモンド−レズリーのジョイントプロジェクトをサポートしました。 | ||||||
■ 18. ローレンス・ハモンドはブリッジ、チェスおよびオペラが好きな、洗練された教養のある人でした。 | ||||||
■ 19. ハモンドと異なり、他のオルガン会社は、ドン・レズリーと、彼らのオルガンにおいてレズリー・スピーカーを使用することをサポートしました。 | ||||||
■ 20. 今や、電子的にレズリーエフェクトを生み出すことが可能になったので、レズリースピーカー・キャビネットはもはや必要ではありません。 | ||||||
■ 21. ローレンス・ハモンドとウォルト・ディズニーは、親類である。 | ||||||
■ 22. ハモンドオルガンの本当の発明者はジョン・ヘイ・ハモンド2世でした。 | ||||||
■ 23. ローレンス・ハモンドの父親は有名なパイプオルガン建築家で、ローレンス・ハモンドは電子オルガンを発明することにより父の伝統を受け継ぎました。 | ||||||
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1. ハモンドオルガンカンパニーのエンジニアであったドン・レズリー(Don Leslie)だが、ローレンス・ハモンド(Laurens Hammond)と衝突した時に、解雇又は退職した。 | ||||||
この噂は根強く続いていますが、事実ではありません。30年代中頃に、ドン・レズリーは、ロサンジェルスのベイカー・ブラザース・デパートでケイプハート(Capehart)ラジオのサービスをしていました。 ドン・レズリー(Don Leslie)は、次のように説明しています。「1936年には、エジソン電力会社が電力を供給していたロサンジェルス郊外のさまざまなところで、50サイクルから60サイクルへの転換が行われました。このサイクル数の転換において、問題となったのは新しい電気式の時計といくつかの電気器具だったのですが、ハモンドオルガンも50サイクルで設計されていたため、60サイクルで動かした時に、ピッチが高くなってしまうという問題を抱えていました。ギヤーボックスなどの様々な仕組みが考案されましたが、最良の方法は、まったく新しいジェネレーターに置き換えることでした...」 レズリーの「ハモンドでの仕事」は、一時的なものでした。トーン・ジェネレーターの置き換えをすべて完了した時、彼の仕事は終了しました。レズリーの給料は、電力会社によって、レズリーに直接払われました。「1つの面白い事実は、私が現実的には、ハモンドから給料のチェックをもらっていたために、私がハモンドで正社員として働いていたという噂が広がったことです。その時に、私は、ハモンドの可能性に惹かれ、ハモンドの宣伝文句の多くを信じました...」とレズリーは、語っています。 ドン・レズリーは、彼の兄弟ボブの支援によって1940年に最初のスピーカーを作りました。彼は、発明したスピーカーをハモンドに見せることによって、ハモンドはドンを雇用することになると思っていました。 しかし、ハモンドは、最初から拒絶しました。レズリーはハモンド対して、エンジニアとして関係したことはなく、エンジニア以外の立場で雇われたこともありませんでした。 また、したがって、レズリースピーカーの開発に関しては、ローレンスハモンドとハモンドの研究所も無関係だったことになります。もしローレンス・ハモンドが1936年にドン、レズリーに仕事を提供すれば、彼はレズリーが発明したすべてへの権利を所有することになるでしょうから、レズリースピーカーという名前のスピーカーは永遠に世に出なかったことになります。 |
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2. ハモンドの発明者であるローレンス・ハモンドは、ミュージシャンではありませんでしたし、彼が発明したオルガンを演奏することができませんでした。(その上、音痴だったようです。) | ||||||
事実です。特にキーボード・プレーヤーにとって、ハモンドオルガンの発明者が音楽的スキルを持たないエンジニアだったことは、信じられないでしょう。ローレンス・ハモンドは、引退するまでに電気と機械に関する110の特許をとった優秀な発明家でした。彼は、1916年にコーネル大学から機械工学の学士を受け取りましたが、音楽的才能はまったく持っていませんでした。ハモンドは、楽器が弾けず、一曲も演奏できないと、いつも言っていました。
ハモンドオルガンの創世記には、彼の発明したオルガンをより良いものにするために、音楽的なバックグラウンドを持った従業員を、ローレンス・ハモンドは求めました。 エゴと傲慢さが大きな要因であることは間違いないのですが、ハモンドの生涯におけるレズリースピーカーに対する敵対は、ハモンドオルガンの音をレズリーがさらにダイナミックにするということを、音楽的なスキルがないために、聞き取れなかったことにも起因しています。 |
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3. 最初のハモンドオルガンはヘンリー・フォードに売られました。しかし、ディアーボーン(ミシガン州)のフォード博物館の火災によって焼失してしまいました。 | ||||||
事実ではありません。ヘンリー・フォードはハモンドの「最初の顧客」でした。しかし、フォード博物館(Ford Museum)の火災で破壊されたハモンドのモデル Aはオリジナルのオルガンではありませんでした。1934年2月に、フォードは、少なくとも6つのハモンドオルガンを製造前に発注しました。このうちの一つが「博物館のオルガン」になりました。 このころに、ハモンドは、ジョージ・ガーシュインが「最初のハモンドの所有者」であると主張しました。ハモンドは、有名な作曲家と新しい電子オルガンを関連付けることにより、望ましい形でハモンドが認知されるように企てたのですが、ガーシュインのモデルAは、初期の生産品ではあったのですが、「最初の」ハモンドオルガンではありませんでした。 ハモンドの「シリアルNo.1」は、これに比べると、あまり魅惑的でない歴史を持っています。 1935年前半に製造され、J.W.ジェンキンズ・ミュージック・カンパニー(カンザス・シティーのハモンドのエージェント)に送られました。若いセールスマンであるボブ・ピアスは、アメリカ中西部の至る所で、それをデモンストレーションする仕事を行っていました。ピアスは結局、ロングビーチ(カリフォルニア州)でハモンドとSteinwayピアノのディーラーとして成功し、ピアス・ピアノ・アトラスの著者となりました。彼は、「私たち3人、オルガン奏者、メンテナンス担当と私が、3年間、バンと乗用車を使用してサファリ探検のような隊列で販売をして回りました。 私たちは、カンザス、ネブラスカ、オクラホマ、アイオワ、アーカンソーおよびテキサスの100人以上の人口を持つすべての部落や町をまわりました。私たちは、大学キャンパス、ラジオ放送局、女性のためのクラブ、楽器店、教会、時には霊安室でも、モデルAをデモンストレーションしました。私たちが回避したただ一つの場所は、酒場だけでした。」と著書の中で懐古しています。オルガンが1938年にデモンストレーションの役目を終えた時、カンザス・シティーのパセオ・メゾジスト教会に売られ、11年間そこにありました。現在、シリアルNo.1はスミソニアン博物館の「アメリカの第一号」の収集の一部として保存されています。したがって、火災や災害によって破壊される可能性はほとんどありません。 技術的には、「シリアルNo.1」は、「最初」のハモンドではありません。 ローレンス・ハモンドと彼のエンジニアは、1933年にプロトタイプのオルガンを開発しました。プロトタイプは、研究と特許をとるためのモデルとして使用されました。ハモンドのオルガン特許は1934年4月24日に認められ、モデルAの生産は、1935年の6月に公式に始まりました。面白いのは、ハモンドの時計と同じように、プロトタイプは、自分自身でスタートできない点です。後に生産されたものは、独立したスタートモータを持っていますが、プロトタイプは、古い自動車のようにクランクを手動でまわして、スタートしなければなりませんでした。 (ちなみに、ハモンドの時計は、モータの後ろのThumb Wheelを回すことによりスタートしました。) |
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4. レズリースピーカーが導入されるまで、初期のいくつかのハモンドトーンキャビネットは、機械式のロータリートレモロシステムを持っていました。 | ||||||
事実です。初期のハモンドトーンキャビネットであるDXおよびCXシリーズはキャビネットの上部セクションに小さなリスの「かご」と呼ばれたローターを持っていました。ローターは、音の振幅または強度を変えることができましたが、周波数変調(ビブラート)を得ることはほとんどできませんでした。 ハモンドは、1945年にビブラート・スキャナを導入しました。これは、トレモロ・ローターの代わりに使われました。また、ロータータイプのキャビネットは第二次世界大戦の後に製造中止になりました。初期の販売パンフレットには、ハモンドトーンキャビネットが「機械的な回転による振動(rotating mechanical tremulants)」などの「刺激」がないこと、「低音のブーミング」がないことを主張しています。この広告は、明らかにレズリーを意識しています。工場の技術者は、Xシリーズのトーンキャビネットを提供した時に、ローターをだめにするように命じられました。 ハモンドは、さらにレズリーの信用を傷つけようとして、ハモンドのローターシステムを利用しました。ハモンドの顧客は「ハモンドの優秀なビブラート・システムがあれば、トレモロ・ローターは、もう、必要ではありません。」と伝えられました。しかし実際のところは、ハモンドのロータートーンキャビネットは、レズリースピーカーのような音はしませんし、ローターが動いていようと、止まっていようと、音の違いはほとんどありませんでした。 |
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5. ローレンス・ハモンドは、レズリーと比べてしまうと、ハモンドのトーンキャビネットの音が悪く聞こえてしまうために、レズリースピーカーを好きではありませんでした。 | ||||||
No.2を参照して下さい。ローレンス・ハモンドは、明らかにレズリースピーカーが好きではなかったのですが、それは、彼の偏見からではなく、トーンキャビネットの音が悪く聞こえてしまうためでした。何年か後にレズリースピーカーについて、どう思うかを質問されたハモンドは、「私は、私のオルガンがこのような音(レズリーを使用した音のこと)で鳴ることを決して意図していたわけではない。」と不合理な感想を述べています。過去の状況から判断して、ハモンドは、何が良い音で、何が悪い音かのコンセプトをほとんど持っていませんでした。彼のトーン・ジェネレーターは、彼が1921年に発明したAC同期式の時計用モータに基づいており、彼は正確な動作をするものが、明らかに好きでした。 初期のハモンドオルガンは、ローコストなパイプオルガンの代替品として販売されました。パイプオルガンは無数のランダムな位相とピッチ変化を生み、ほとんど正確とはいえません。むしろ、レズリースピーカーは、ハモンドオルガンを、よりパイプオルガンに近い形で鳴らしました。残響音を除いて、ローレンス・ハモンドは、パイプオルガンの多くの音響上のニュアンスと音楽上の不完全さに気が付かなかったように見えました。 |
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6. レズリースピーカーは、いつも「レズリースピーカー」と呼ばれていたのではない。 | ||||||
事実です。レズリースピーカーの最初の名前はビブラトーン(Vibratone)でした。また、レズリースピーカーは、ブリテンスピーカー(Brittain Speakers)とも呼ばれていました。 1941年に、ドン・レズリーは、ルー・ブリテンと悲惨なパートナーシップを結び、初期のネームプレートでは、メーカー名を「Brittain Sound Equipment社」としています。このパートナーシップは戦争の後に解消されました。 レズリーは、さらに、「ハリウッドスピーカー」(カリフォルニアのハリウッドの近くで製造されていたため)という名前でも知られており、また、「クローフォードスピーカー」(オルガン奏者ジェシー・クローフォードはニューヨークエリアで最初のレズリーのディーラーでした)とも呼ばれていました。 1946年に、混乱を解消するために、「レズリー・ビブラトーン」に再び名前が修正されました。しかしながら、ほとんどの人々はそれを単に「レズリー」と呼びました。1949年には、ドン・レズリーの方が根負けして、「Vibratone」を削除しました。 |
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7. ドン・レズリーは、レズリースピーカーの宣伝を決して行いませんでした。 | ||||||
事実です。レズリースピーカーは、非常に人気が高く、文字通りかってに売れていきました。ハモンドで進行中の反レズリー宣伝も、スピーカーへの関心を確実に増加させました。 ドン・レズリーは、次のようにコメントしています。「私は、ハモンドが私の製品を連続的に酷評することにより、私の製品が世間に知れ渡ることに驚嘆しました。この口頭での宣伝が非常に良かったので、会社を起こしてから、1965年にCBSに売却するまで、宣伝は一切必要なく、私の問題といえば、売上にあわせて、いつも生産が遅れないようにコントロールしなければならなかったということだけでした。」 その後(60年代後期から70年代全体にわたって)、CBSが音楽業界およびオルガン愛好家のための出版物において、レズリースピーカーの宣伝を行いました。 |
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8. レズリースピーカーと接続されたハモンドオルガンを、ハモンドのサービス部隊が保守サービスすることはできませんでした。レズリースピーカーをハモンドの施設やオフィスに持ち込むことは、許可されませんでした。 | ||||||
誤りです。ハモンドの反レズリー宣伝にもかかわらず、サービス部門は、レズリースピーカーに接続されたハモンドオルガンをいつも保守サービスしていました。1940年後半に製造された最初の5つのレズリーのうちの1つは、デンバーのハモンドディーラーに送られました、そして、ただちに、シカゴのハモンド工場に輸送されました。数年にわたって、ハモンドのエンジニアたちは、新しいモデルのレズリースピーカーが、発売されるごとにチェックしました。これらのモデルが、ハモンドのトーンキャビネット販売に大きく影響することを知っていたからですが、ハモンドは、その事実を認めませんでした、しかし、1940年以降、ハモンドオルガンカンパニーに、レズリースピーカーが常にありました。 |
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9. 何人かの経営幹部を含む多くのハモンドの人々は、ドン・レズリーを尊敬していました。また、彼らはハモンドオルガンカンパニーの反レズリー政策を支援しませんでした。 | ||||||
間違いなく事実です。オルガンを所有していた多くのハモンドの従業員はさらにレズリースピーカーも所有していました。少なくとも1人のハモンドの役員は、彼の名前が販売レコードに残らないように、友人に頼んで、販売店でレズリーを買っています。ドン・レズリーは、ハモンドの人々が音楽業界の展示会でレズリーの展示ブースを訪れた時や、レズリーがハモンドの展示ブースに招待される時に、どんなに自分に対して親しみを持っていたかを語っています。その後、彼がハモンドのブースに到着した時、他のハモンドの人々(ローレンス・ハモンドに忠実な人々)は、彼をよく部屋から追い出しました。ハモンドオルガンカンパニーは巨大な会社であり、レズリーとハモンドとを比較してみれば分かるように、小さなスピーカー・ビジネスに対する会社の敵対意識は、ハモンドの合理的な考えを持った人々にとっては、当惑でした。 ハモンドのフランチャイズを与えられたディーラーは容易に「世界最大のレズリーの無許可流通経路」になれ、これらの販売会社の多くは、「レズリー販売なし」というハモンドの意向を無視しました。ハモンドのアーティストたちは、しばしばハモンドのスポンサーシップの下にあったのですが、レズリースピーカーが使用されないコンサートでの演奏を拒否しました。ハモンド上層部の「反レズリー政策」は、明らかに少数派でした。 |
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10. 何年にも及ぶ二社間の激しい抗争にもかかわらず、ハモンドの管理部門は、秘密裏にレズリー社を手に入れようと切望しました。 | ||||||
歴史は、これが事実であることを証明しています。 1980年に、ハモンド社が、エレクトロミュージック(Electro Music)およびレズリーの名称をCBSから買い取りました。現在、レズリーは、ハモンド/スズキ・アメリカの下でハモンドの一部として残っています。ドン・レズリーは、当初、彼が「ハモンドの一部になることを切望していた。」ことを潔く認めています。 ハモンドが1940年に彼およびレズリースピーカーを拒絶した後だけ、彼は、独立した会社としてElectro Musicを組織します。1965年に、レズリーはCBSに彼の大成功を収めた高利益の会社を売りました。また、Electro Musicは、CBSの楽器事業部(CBS Musical Instruments)に成長しました。 CBS-レズリーの販売協定の一部には、ドン・レズリーが5年間コンサルタントとして残るということが含まれていました。 1966年には、ハモンドのマネージャーが、ハモンドオルガンでレズリーのOEMモジュールを使用することに関してCBSと電話で接触しました。「レズリー」と聞いて、応対した秘書はドン、レズリーに直接電話をまわしました。電話の相手が誰だか理解し、決まりが悪くなった彼は、「どういえば良いのか、良く分からないのだが、あなたのスピーカーユニットを買いたいと思っている。」と伝えました。レズリーは「なぜ、レズリースピーカーユニットを買いたいと言わないのか」と返答しました。他のオルガンメーカーは、もう何年も内蔵のレズリーモジュールを使用していました。最後にハモンドがグループに参加することになりました。すぐに、X-77などのハモンド−レズリーのジョイントプロジェクトが始まりました。ハモンドがレズリーを「支持した」後、ハモンドは、ハモンドの名を備えたハモンドタイプのトーンキャビネットの生産をひそかに中止し、ハモンドの名を冠した新しいオルガンスピーカーモジュールの開発はそれ以降ありません。歴史的な狂騒は終わりました。 1996年の夏に、ハモンド/スズキはHS-1140という単一チャンネルのスピーカー(Single Channel Speaker)、およびWCA-400(Carver)アンプを発表しました。この「非ロータリー」システムは、既存のレズリーモデルへの付属物としての位置付けであり、レズリーと競い合ったり、レズリーサウンドの置換えシステムではありません。 |
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11. ドン・レズリーとローレンス・ハモンドは互いに憎みあっていた。 | ||||||
ローレンス・ハモンドとドン・レズリー間の対抗は、二人が友人になることを妨げました。しかし、憎しみあっていたという言葉は、強すぎるようです。 ローレンス・ハモンドは極力人前にでない人で、公の記録に彼が個人的にドン・レズリーを攻撃したという事実は残っていません。 1996年の1月にドン・レズリーは、著者に「私は、ローレンス・ハモンドに関してあまり言い過ぎないように注意しています。結局、もしハモンドと彼のオルガンがなければ、私はどうなっていたかわからないのですから」と伝えています。訴訟、反レズリー宣伝、その他の愚行にもかかわらず、ローレンス・ハモンドとドン・レズリーの関係は、共生でした。レズリースピーカーは、伝統的な教会という市場を超えて、オルガンユーザに多くのハモンドオルガンを売りました。また、ドン・レズリーは、彼の製品を販売促進するために、明らかにハモンドを必要としていました。レズリーは、Wurlitzer、Conn、Gulbransen、他のオルガンのためのスピーカー・モデルを開発しました。しかし、ハモンドオルガンは、常にレズリーの第一のターゲットでした。 | ||||||
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12. ドン・レズリー個人のオルガンは、たくさんのレズリースピーカーを持ったハモンドキラーに違いない。 | ||||||
根強いB3愛好家は、これが事実であってほしいと願うでしょうが、事実ではありません。ドン・レズリー個人のオルガンは特注品で、三つのマニュアルを持った電子式の シアターパイプオルガンです。コンソールは、ロジャーズのトリオのものを用いていますが、オリジナルのロジャーズの電気部品は使っていません。唯一、ストリング音源だけを、回転スピーカーから流すことができます。また、通常のレズリーキャビネットは使用されていません。数多くの電子的な音源に加えて、このオルガンは、三つのランクの空気で駆動される本物のパイプを持っています。レズリースピーカーは、ジャズ、ゴスペル、ブルース、ロックなどにオルガンサウンドを提供します。しかし、ドン・レズリーは、昔も今も、なお シアターパイプオルガンの愛好家なのです。 | ||||||
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13. ハモンドはモデルB4が、あまりにも良すぎたので、販売しませんでした。プロトタイプのB4は、開発され、隠され、そして、誰かが発見してくれるのを、今もなお待っています。 | ||||||
これが事実の場合、機密保持は、ステルス爆撃機の時より、上手くいっています。冗談はさておき、「モデルB4」は、ありませんでした。ハモンドB3は1955年1月に「新しいモデル」として登場しました。しかし、実際には、1934年のオリジナルであるモデル Aの新たな焼き直しでした。1950年代後半に、ハモンドは、ニューモデルのための研究を行いましたが、B4というモデルが真剣に考えられたことはありませんでした。1960年代の中ごろ、より新しく、コストのかからない(したがって利益率の高い)オルガンが主流をしめました。ハモンドの競争者は、多数の「オプション機能」を備えた新しいオルガンを開発し、初心者やカジュアルなユーザにとって、単純なB3は、人気がありませんでした。 B3のトーンホイールジェネレーターは非能率的で、生産するのに多くのコストを必要とし、完全に電子化されたオルガンの多種の複雑な音源を実現することは容易にはできませんでした。ジェネレーターを作るために使用されるトーンリングは、その最盛期を過ぎていて、高いコストを正当化する新しいトーンホイールオルガンの十分な需要はありませんでした。最後のB3は、1975年に残った部品から組み立てられました。1976年前半に、ハモンドは、トーンホイールジェネレーターの最後のアセンブリ工場であったメルローズパーク(イリノイ)のプラントを閉じました。いくつかのディーラーは1978年くらいに製造された新しいB3を持っていましたが、トーンホイールオルガンは、過去のものとなりました。 |
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14. ハモンドオルガンの、発売時期、生産時期、実際の入手可能時期については、明白な矛盾があります。 | ||||||
長年のハモンドの愛好家は、これが事実であることについては良く知っています。以前のハモンドオルガンカンパニーは、新しいモデルを大量に生産しませんでした。プロトタイプが生産され、音楽業界の展示会でディーラーに紹介されました。その後、こっそりと、内覧会を行います。地方新聞のプレスリリース、ハモンド・タイムズ(ハモンド社のマガジン)中のティーザ広告(製品の一部だけを見せて興味を引くような広告)、教会や愛好家用の出版物でのアナウンスを、ニューモデルの販売を加速ために行います。これにより、人々は、最初の生産が始まる(時には数年)前に、新しいオルガンが入手可能だと思いました。人々は、デモンストレーションで各地をまわった一台か二台のオルガンくらいしか生産していないことに気がつきませんでした。 モデルが製造中止になる時には、これとまったく反対のことが行われました。既存のディーラーおよび会社の在庫を守る(売り切る)ために、公の製造中止の発表は行なわれませんでした。生産は止まりましたが、しかし、注文は倉庫に在庫がある限り受け入れられました。この時期には、そのモデルは、公には現行のモデルであり、在庫がなくなった時に初めて、公にモデルが生産中止となります。もちろん、ディーラーは、モデルが置き換わることを知っていました。しかし、しばしば、それさえ通知されないこともありました。古いモデルと新しいモデルが、ディーラーのショールームで何年間も、古いモデルの在庫がなくなるまで、肩を並べているということがあったようです。 現在のハモンド/スズキの人々は、ハモンドが競合他社および「部外者」に生産されたオルガンの実数を知ってほしくなかったこと、また、顧客にシリアルNo.によって自分のオルガンの製造時期が判明してしまうことを望まなかったと推測しています。モデルAの後で、ハモンドは、連続しないシリアルNo.を、いくつかのモデルに割り当てています。例えば、1973年から74年に生産された後期のB3コンソールが、その10年前に生産されたオルガンより小さいシリアルNo.を持っています。 理由が何であれ、ハモンドのシリアルNo.をコントロールしていた人は、亡くなっているか退職しているかのどちらかであることは間違いありませんし、番号が正しく並び替えられることもありません。また、ハモンドが主張した「期間を言ってくれれば、ハモンドが生産したオルガンとトーンキャビネットの数がわかる。」というのも、他の文献で真偽が議論されています。したがって、ハモンドのファクトリートータル(factory totals)は、おおよその値であると考えるべきです。 |
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15. ハモンドB3は、世界中で製造されたオルガンの中で、最良の電子オルガンです。 | ||||||
B3愛好家は、あたかも宗教上の宣告のように、この事実を認めます。しかし、それは明らかに主観的な問題です。もし、B3の頑丈な構造、耐久性、モデルの寿命、再販価格およびユーザの人気が、最良の基準である場合には、上記記述は事実です。他の要因が考慮される場合、古いB3はいくつかの欠点を持っています。 当初、ハモンドは技術第一の会社でした。 ローレンス・ハモンドを頂点として、製品の設計に責任を負う人々は機械工学又は電子工学のエンジニアでした。経理、マーケティングおよび他の事務系の人々に発言力はあまりなく、ハモンドオルガンは、長く存在することを目指して、設計され製造されました。コスト低減は、製品品質についで大切なものであり、B3、C3、それらのクローン及びそれ以前の製品は、かつて製造されたオルガンの中で、最も頑丈に作られた大量生産のオルガンです。100,000台を越えるB3は、20年以上の間、生産され、かつて生産されたオルガンの中で、最もポピュラーな電気式電子オルガンです。 ゴスペルミュージックにおいてB3と122レズリーの組み合せが標準になるずっと前に、ハモンドは、教会への販売のため、パイプオルガンとパイプオルガンリプレース用の電子オルガンと戦わなければなりませんでした。 ドローバーをどのように設定し、パイプオルガンの音を作り出すかを書いた、ハモンドの文献や他の人が書いた本があるにもかかわらず、古いトーンホイールのハモンドは、明らかにパイプオルガンの貧弱な模倣者でした。アラン、ボールドウィン、Connのようなハモンドの競合他社は、すべてもっとパイプオルガンらしく聞こえる電子オルガンを生産しました。「本物のパイプオルガン」が要因である場合、B3は最良ではありません。ハモンドB3は、それが得意な分野では非常に優れていますが、多種多様な音とエフェクトを可能にした今日のデジタル電子オルガンおよびキーボードと同じ土俵に立つものではありません。 |
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16. 1955年に社長を辞任した後も、ローレンス・ハモンドは彼の影響力および権力をハモンドオルガン社に対して振い続けました。 | ||||||
事実です。 ローレンス・ハモンドは1955年に社長を辞任しましたが、取締役会長として残りました、そして1960年まで研究を続けました。ハモンドは風変わりでかつ独裁的なボスと評されています。また、役員の中には、危険をおかしてまで彼と論争するものは、いませんでした。彼の残したアイデアと政策を、新しい管理政策に置き換えるのに、数年かかりました。会社は、当然のことながら、高い収益性と業界内でトップであることに影響する変化を嫌がりました。ハモンドオルガンでレズリーモジュールを使用するとか、ハモンドトーンキャビネットの代わりにレズリースピーカーを使用する新しいオルガンの設計などの新しい動きは、古い統治の下では発生しませんでした。 1960年にローレンス・ハモンドは会社とシカゴを去り、ウエスト・コーンウォール(コネチカット州)にある、彼の二人目の妻の田舎へ引越しました。1994年の彼の最初の妻(ミルドレッド)の死後、男やもめだったハモンドは、1955年に、ロクサナ・ハリソンと結婚しました。ハモンドは、1973年7月3日に78歳で亡くなり、残されたのは、彼の妻と娘(ペギー)の二人です。もう一人の娘(ポリー)は、彼より前に亡くなっています。ハモンドは、ウィリアム・アンドリュー・ハモンドの末っ子で唯一の息子でした。かれの父のウィリアム・アンドリュー・ハモンドは、シカゴの銀行家で、今は存在しないイリノイファーストナショナルバンクの副社長でした。ローレンス・ハモンドには7人の孫がいますが、彼には息子がいないので、ハモンドの姓を持つ直系の子孫は、いません。 |
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17. ローレンス・ハモンドは、後にレズリー・スピーカーに対する考えを変え、レズリーのモジュールをハモンドオルガンで使用することに合意しました。また、ハモンド−レズリーのジョイントプロジェクトをサポートしました。 | ||||||
16を参照してください。不幸にもこれは、事実ではありません。彼の生涯にわたって、ローレンス・ハモンドは、強固にハモンドオルガンにおいてレズリー・スピーカーを使用することに反対しました。彼がこの世を去った後にだけ、レズリーとのプロジェクトが検討されました。 | ||||||
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18. ローレンス・ハモンドはブリッジ、チェスおよびオペラが好きな、洗練された教養のある人でした。 | ||||||
事実です。ハモンドの変わった発明には、彼のシンクロAC時計用モータを使用した電気式ブリッジ・テーブルと、トランプを混ぜるゴムの指(rubber finger)がありました。彼は、チェスが特に好きで、ミシガン湖の近くのノースアベニューのショーアドライブ(Shore Drive)にアウトドア・チェス・パビリオンを建築するように、シカゴ公園地区に100,000ドルを寄贈しました。 ハモンドは、1895年にエヴァンストン(イリノイ州)で生まれましたが、彼は1898年から1909年にかけてヨーロッパで暮らしました。彼は、マルチリンガルで、フランスとドイツで小学校に通って、イギリスおよび他のヨーロッパ諸国へ頻繁に旅行しました。彼は、音楽の才能はありませんでしたが、オペラおよび他のクラシック音楽に対する趣向を小さいころに身に付けました。 |
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19. ハモンドと異なり、他のオルガン会社は、ドン・レズリーと、彼らのオルガンにおいてレズリー・スピーカーを使用することをサポートしました。 | ||||||
部分的に事実です。レズリーは、オルガンを製造しなかったという事実にもかかわらず、オルガンメーカーは、ドン・レズリーとエレクトロミュージックをある種のコンペティターだと考えていました。オルガンメーカーの多くは、トーンキャビネット(その多くは、スピーカーとパワーアンプを収納した箱以外の何物でもなかったのですが)を製造していたので、部外者をサポートするのは、気が進みませんでした。しかしながら、ほとんどのオルガン会社は、ハモンドよりは好意的でした。レズリースピーカーは、オルガンを売りましたし、彼らは、レズリーとハモンドの公の醜い論争に巻き込まれるのを望みませんでした。 ハモンドの後に、レズリースピーカーが、初めて使われたのは、WurlitzerとConnのオルガンでした。両方の会社は自前のトーンキャビネットを製造していましたが、レズリーについては寛容でした。どちらも、喜んでやったわけではありませんが。ドン・レズリーは、Connの株式を、実権を行使できるレベルまで買うことを、Connのマネジメントに納得させました。買収を心配して、Connは、クラシックとアーティストという二つのモジュールからストリングとフルートの音源を分離して、レズリーの据付を単純化しました。 Wurlitzerは、初期のリード・モデルにおいて発生していた雑音とクロス・トークの問題を解決するためにドン・レズリーの専門的技術を使用しましたが、一方では、「Spectratone」と呼ぶレズリーのイミテーションを開発しました。レズリーは、廉価版の本物のレズリー(モデル125)で応戦し、それはWurlitzerの企みを無効にすることができました。たった1つの例外を除いて、オルガン会社は、レズリースピーカーを100%支持しているわけではありませんでした。 50年代後半に、Gulbransenから来たディック・ピーターソンという人物がドン・レズリーを尋ねてきて、大きな変化がありました。彼が設計していた新しいトランジスターオルガンに、レズリー内臓ユニットが組み込まれることを提案したのです。レズリーは、最初、レズリーキャビネットの売上に悪い影響がありそうなこの話に乗り気でなかったことを認めています。その後、レズリーとピーターソンは友人になり、かれらのパートナーシップは、その後、何年も続きました。 (ドン・レズリーの家にあるカスタムオルガンの大部分はディック・ピーターソンの手によるものです。) ディック・ピーターソンは、さらにヴォルト(イリノイ州)でPeterson Electro-Musical Productsを設立しました。彼の会社は、現在、パイプオルガン・コンソール用のMIDI機器とオルガンに関連する製品を生産しています。 Gulbransenは、トーンキャビネットを決して生産しませんでした。また、ピーターソンとレズリーの友情は、Gulbransen Organsに特化した4つのユニークな外部レズリースピーカーモデルを生み出すことになりました。 内蔵のOEMレズリーは、すぐにポピュラーとなり、ほとんどの主なオルガン会社は、結局それを使用しました。レズリーモジュールは機能的にレズリーの半分を超えることはなく、むしろ、外部レズリーキャビネットを売ることを支援しました。レズリーの特許が終了するとともに、オルガンメーカーは自由に自分のロータリースピーカー・システムを開発することができたのですが、ほとんどのメーカーは、作らない道を選びました。レズリーは、良いオルガンサウンドの代名詞であり、ほとんどのオルガン会社は、彼らの楽器上にレズリーの名前を付ける道を選びました。 1961年以降のElectro Music社の利益の大部分は、オルガンメーカーへのOEMモジュールの販売から得ています。 ハモンドとGulbransenに加えて、レズリーはConn、Wurlitzerおよびトーマスオルガンのために固有ブランド向けのスピーカーを製造しました。「非ハモンド」(しかし固有ブランド向けでない)マルチチャンネルレズリーは、ボールドウィン、Lowreyおよび他のオルガンのために開発されました。「ユニバーサル」レズリーモデルはKimball、ロジャーズ、河合、Farfisa、Viscount、Acetone、Silvertone(シアーズ)、Kustom、ヤマハおよびGemオルガン、ポータブル・キーボード、シンセサイザー、電気ピアノおよび他の楽器と共に使用されました。 特別の接続なしで外部レズリーキャビネットを接続することができるように、多くのメーカーは彼らのオルガンに「レズリーソケット」を付けました。たとえ、ハモンド/スズキがレズリーを所有しても、ハモンドのコンペティタのロジャーズは、最新のオルガン(例えば、ロジャーズW-5000)にレズリースピーカーを工場で装備しています。 すべてのオルガンメーカーが、レズリーを支持していたわけではなく、アランは、レズリースピーカーを一度も使用していません。ディジタル機器を開発する前に、アランは「Gyrophonic」システムという機械式ローターを持ったレズリーに似た製品を開発しています。アランのローターの設計は、レズリーの特許抵触を回避したレズリーとは異なった構造になっていました。 (アラン「Gyro」キャビネットは、ベルトとモータのアセンブリによってドライブされる軸を中心に回転する大きな合板ディスクの上に2つあるいは3つのフロントマウントのスピーカーを持っていました。) ボールドウィンは、オルガンおよびトーンキャビネットの両方で、レズリーからのライセンスの下、レズリータイプのローターシステムを生産していました。ヤマハは、70年代は工場据付型、80年代初期はビンテージオルガン用に外部レズリーキャビネットを使っていましたが、ヤマハブランドのロータリー・スピーカー・システムも開発していました。 60年代の後半には、業界のデファクトとしてのレズリーの認知は、現実のものとなり、レズリースピーカーは、尊重される製品となり、また、ほとんどのオルガンメーカーは自前のトーンキャビネットを製造することをやめました。いまだに製造しているメーカも、直接の競争と過去の争いを回避しています。 |
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20. 今や、電子的にレズリーエフェクトを生み出すことが可能になったので、レズリースピーカー・キャビネットはもはや必要ではありません。 | ||||||
いくつかの領域については、これは事実かもしれません。しかし、それは、ユーザとレズリー・シミュレータの性能次第です。レズリーエフェクトを生み出す装置は、新しいものではなく、レズリースピーカー自身と同じくらい長い歴史があります。初期のシステムは、しばしば、重量的にも、容積的にも、コスト的にもレズリーとほぼ同じであり、ほとんどレズリーのコピーでした。 WurlitzerのSpectratoneおよびアランのGyrophonicシステムは、両方とも、大きく、機械的に設計されたものでした。シカゴのグレン・デイビスによって生産されたGlentoneスピーカーは、初期のレズリーの競争相手でした。70年代に英国のキース・ヒッチコックによって製造されたSharmaスピーカーは、あきらかにレズリークローンでした。 レズリーのような音を作り出す装置は、60年代からありました。安いソリッドステートのコンポーネントとよりポータブルな機器への要望によって、多数の電子版レズリー、トレモロとビブラート用の追加機器が開発されました。初期のほとんどのレズリー・シミュレータは、カジュアルなリスナーでさえ本物と間違えることはなく、本物のレズリースピーカーと同じように聞こえることはめったにありませんでした。大部分は単純なフェイズシフト回路で構成され、コンパクトで低コストである点が売りになっていました。現在の製品は非常に改善され、録音された音を聞く限りにおいては、実際のレズリーとシミュレータを聞き分けることは、多くの場合困難です。 レズリーを含む機械的な回転式のトレモロ・システムは、すべて、ドップラー効果を利用しています。ドップラー効果は、オーストリアの数学者であり物理学者でもあったクリスチャン・ドップラー(1803-1853)によって、19世紀の前半に発見されました。ドップラー効果は、静止しているリスナーが動いている音源から出ている音を聞くとピッチに明白な変化が現れることを言います。実際には、音の大きさも変化するので、周波数(ビブラート)と振幅(トレモロ)の変調が起こります。この二つの効果が、レズリースピーカーや他のドップラー効果を利用したシステムに特有の音をもたらしています。 基本的なドップラーの特性は、電子的には容易に作ることができます。しかしながら、ほとんどのシミュレータは、音を反響させないか、機械的なシステムが生み出すユニークなオーディオ特性を生み出しません。スピーカーエレメントを直接回転させることによって横方向、後方からも音を出力し、その音は近くの壁や物体に反響することになります。リスナーは、動くオーディオ空間との中で、直接出力される音と反響した音を両方聞くことになります。別のキャビネットを加えることで、さらにこの効果は増加します。オーディオソース(オルガン)がモノであっても、回転するスピーカーと反響する音によって、現実的なステレオ結果を生み出します。 最近では、「ハイブリッドレズリー」といって、電子的要素および機械的要素の両方を利用するシステムも開発されています。Motion SoundのPRO-3や、ハモンド/スズキの300シリーズのレズリーモデルは、高音域については本物のロータリーホーンを使用していますが、低音域についてはレズリー効果を電子的に作成しています。結果は、電子装置による特有の合成音がなく、従来のレズリーキャビネットより、“らしく”聞こえる、コンパクトなシステムとなっています。 レズリーキャビネットが、かさばり重いことは、ミュージシャンにとって無視できない事実でした。シミュレータは、一般に小さく、持ち運びやすく、本物のレズリースピーカーほど高価ではありません。シミュレータは、シミュレータであり本物と同じように鳴ることはありませんが、オルガン奏者は、しばしば、本物のレズリースピーカーを持ち運ぶより、音的には落ちるシミュレータを選ぶこともあります。 |
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21. ローレンス・ハモンドとウォルト・ディズニーは、親類である。 | ||||||
どこからこんな話が出てきたのでしょうか?ウォールター・イライアス・ディズニー(1901-1966)、カートン・アニメーターでもあり、映画製作者でもあった彼は、ローレンス・ハモンドが生まれた6年後に生まれました。両者は特異なフィールドでベンチャーとして成功するための動機づけと、執着を持った、創造的で想像力豊かな人でした。彼らは互いの成功を賞賛しましたが、親類関係にあったわけではありません。ウォルト・ディズニーの「メロディータイム(Melody Time)」(漫画のキャラクターと人間が登場する1948年のフィルム)は、エセル・スミスおよびハモンドオルガンをフィーチャリングしました。 (彼女とオルガンはターンテーブルの上に乗り、ドナルドダックと他のディズニーキャラクターはエセルのポピュラーなラテンアメリカの音楽にあわせて踊りました。) ディズニーとハモンドが、写真の上では、似ていたので、こんなたわいもない噂が始まったのでしょう。彼らは、同じ時代を生きましたし、鉛筆で書いたような口ひげをはやし、髪の毛を後ろにとかし、30年代および40年代では、一般的なスタイルをしていました。 |
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22. ハモンドオルガンの本当の発明者はジョン・ヘイ・ハモンド2世でした。 | ||||||
この誤った有名な噂は、少なくとも40年間続いています。オルガン奏者ジェシー・クローフォードのライナー・ノートの中にも書かれ、また最近、インターネット上で再び浮上してきました。ハモンドとディズニーの関係と異なり、ローレンス・ハモンド(1895-1973)とジョン・ヘイ・ハモンド2世(1888-1965)の業績がどうしていっしょになってしまったのかを確かめることは簡単です。共通した苗字に加えて、彼らは、類似したプロジェクトで業績をあげたアメリカ人の発明者でした。 ジョン・ヘイ・ハモンド2世は軍需用の誘導装置を発明した、電子工学のエンジニアでした。 1911年に、彼はハモンドラジオリサーチ研究所(Hammond Radio Research Laboratory)を設立しました。彼の発明品には、リモート・コントロール魚雷、電子的なジャムに強いラジオ・コントロール・システム、初期のラジオ用のシングル・ダイヤルのチューニング・システム、長距離電話用の増幅装置などがあります。1925年は、ローレンス・ハモンド(と初期のパートナーE.F.アンドリュース)がアンドリュース−ハモンド研究所(Andrews-Hammond Laboratory)を設立しました。彼らの主なプロジェクトは初期のラジオ用のバッテリー除去装置(eliminator)でした。第二次世界大戦中に、ローレンス・ハモンドは軍で使用するオルガンを製造し、航空管制システム、航路シミュレータ、爆弾誘導用の赤外線センサーシステムなどの軍需用の設備を開発しました。 ローレンス・ハモンドとジョン・ヘイ・ハモンド2世は、知り合いだったかもしれませんし、彼らは、スコットランドでの共通の先祖を持っていたかもしれませんが、直接的な親類関係にはありませんでした。 (ローレンス・ハモンドには3人の姉妹がいましたが、兄弟はいませんでした。) ジョン・ヘイ・ハモンド2世はハモンドオルガンの発明者ではありませんし、互いのプロジェクトにかかわっていたということを示唆する証拠もありません。 |
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23. ローレンス・ハモンドの父親は有名なパイプオルガン建築家で、ローレンス・ハモンドは電子オルガンを発明することにより父の伝統を受け継ぎました。 | ||||||
No.16のローレンス・ハモンドの父親(ウィリアム・アンドリュー・ハモンド(1851-1897))を参照してください。ウィリアム・アンドリュー・ハモンドはシカゴに銀行家でした。この話は、2,3年に一回浮上する息の長い間違った噂の1つです。この話は、インターネット上の「Hammond Information」ウェブサイトで歴史上の事実として扱われました。 米国のほとんどの19世紀パイプオルガン建築家らは、ヨーロッパのオルガンファミリーから技術を学んだか、彼らの子孫です。ローレンス・ハモンドの祖父は聖職者でしたが、表面的にオルガンとかかわったことがあるだけです。彼の父の祖父で、名前をもらったヘンリー・ローレンス・ハモンド(1815-1893)は、会衆派教会(Congregational)の牧師で、南北戦争時代に奴隷制度に反対した廃止論者でもあります。彼の息子(ウィリアム)は、オハイオ州Gambier出身の監督派(Episcopal)の牧師であるエラストス・アルバート・ストロングの娘、アイデア・ルィーズ・ストロング(1859-1938)と1883年1月12日に結婚しました。息子であるローレンスに加えて、3人の娘、ルィーズ、エリザベスおよびユーニスがいました。 シカゴ、イリノイのファーストナショナルバンクが1871年に組織された時、ウィリアム・ハモンドは銀行員として雇われました。彼は金銭出納係り、支配人と昇進し、結局、銀行の第二副社長になりました。ハモンドは、さらに、路面電車会社を含むいくつかの会社の重役も勤めました。ある鉄道会社とのかかわりは、興味と個人的な破滅の衝突という形で表面化しました。 1896年12月21日に銀行は、カルメット電気鉄道会社(Calumet Electric Railway Company)の価値のない有価証券を過度の所有していたことが原因で傾いてしまいました。ウィリアム・ハモンドは、明らかにローンを承認しており、自分の利益のための銀行をつぶしたとして非難されました。銀行が犯した失敗が、完全にハモンドのせいではないという証拠もありましたが、問題は解決しませんでした。 1897年1月2日の午前中に、取り乱した銀行家は、氷のミシガン湖へ身を沈め、自殺しました。 ローレンス・ハモンドは、まだ2歳にも満たない子供であったため、彼は現実には父親を知りませんでした。 1898年に、アイデア・ハモンドは、彼女の子供とヨーロッパへ向かって出航しました。彼女は画家になり、パリで絵画スタジオを開きました。1907年には、ハモンド夫人は、Beaux Art Salonでショーを成功させた芸術家として知られるようになり、ローレンスはドイツとフランスで小学校に通い、科学や発明、技術的な領域に関心を持つようになりました。しかしながら、1909年に、第1世界大戦につながるヨーロッパの社会不安は問題化しており、家族は米国へ帰りました。もし、ウィリアム・ハモンドが自殺していなかったならば、ローレンス・ハモンドは、銀行家になったかもしれませんし、ハモンドオルガンも発明されなかったでしょう。 |
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この記事は、Harvey Olsen氏が調査し、編集した原文(英語版)を、著者の承諾を得て高木庵が日本語に翻訳したものです。 なお、原文は、http//theatreorgans.com/grounds/index.htmにあります。 |
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