ハモンドオルガンを開発し、販売してきたハモンドカンパニーの50周年に出されたパンフレットの翻訳です。おそらく、1984年に発行されたものと思われます。
下で紹介しているTHE HAMMOND GROUNDSというホームページに掲載されていた英文の記事(原文のタイトルは、THE HAMMOND STORY "Fifty years of musical excellence."です)を、翻訳しました。
原文でお読みになりたい方は、こちらをどうぞ。現在、厳密な意味ではハモンドカンパニーは、存在しませんが、鈴木楽器製作所及び海外の関連会社が、その後を引き継いでいます。
なお、この文章の掲載に関しては、鈴木楽器製作所の許可を得ています。 

ハモンド物語

「50年間に渡る音の卓越性」

創立50周年時のハモンド社パンフレットから

 

ハモンドオルガン物語は、エヴァンストン食料雑貨店上のロフトから始まります。業界の創立者になるために、また、業界をリードする一員になるために、ある会社が、そこで生まれました。今日、ハモンドの名は世界中で知られており、評判も高くなっています。過去の50年において、ハモンドオルガンは、音楽の泉として、売上高換算で10億ドル以上が世界の至る所で販売されました。語り継がれる物語の多さが、このことを証明しています。

 私たちは、過去の50年間と1934年に最初のハモンドオルガンが発明されてから現在までに遂げられた大きな進歩をここに披露するのと同時に、ドナルドR.ソーベイ社長および全スタッフはオルガン産業を立ち上げた企業のさらに大きな発展を楽しみにしています。

 ほぼすべての所得レベルおよび音楽レベルの購買層をカバーする豊富なラインアップ、高度な選択眼をもったディーラーの構成、研究開発、エンジニアリング、製造、マーケッティング分野における強力なトップマネジメントチーム、継続する会社の成長を支える資金の豊富さによって、ハモンドオルガンカンパニーは、オルガン産業の将来にわたる拡大と、その産業において継続的にリーダシップを発揮していくことを確信しています。

 何年にも渡って、独立した企業としての、また、音楽業界のリーダーとしての地位を強化するために、買収を通して基礎を広げてきました。業界において最も顕著なものは、ギブズ(Gibbs Manufacturing and Research Corporation)およびエレクトロミュージック(Electro Music Company)の買収でした。これらの企業は、リバーブユニットとレズリースピーカーの製造と販売において、アキュトロニクス(Accutronics)という名の下で、ハモンドファミリと併合されました。

 ハモンドオルガンの発明者でもあり、会社の名前にもなっているローレンス・ハモンドは、1895年1月11日にエヴァンストン(イリノイ州)で生まれました。その同じ年、ドイツのハンブルクに住んでいた男性が、発電所から送られてくる交流電力の位相を利用して動作する同期式モータを使用して電気式の時計を発明しました。
そのような距離的にも離れた異種の2つの出来事が、この物語の中で一つになるということで、「事実は小説よりも奇なり」という古い格言を裏付ける、また一つの事実となっています。

 ローレンス・ハモンドは、そのモータが電気オルガンの基本的な部品となる同期式の電気時計を後に発明しました。
 また、彼は、同期式時計の同業者とともに、ハンブルグの見知らぬ鋳物商の特許によって、彼の特許が取得できなかったことを知りました。そして、その特許は、彼が生まれた年の特許でした。

 彼の母親は、ハモンドが若い時に、ハモンドと3人姉妹が創造力を養うために多くの努力しました。
母親は、夫が亡くなった後に、職業画家としてのキャリアを積むために、1598年にヨーロッパへ子供と一緒に渡りました。
 パリに住んでいるときに、母親の助力を得て、14歳のローレンスは、オートマチックトランスミッションの特許を取り、ルノーに提示しました。
 彼のアイデアは否定されましたが(1909年はそのような考えには早すぎました)、発明者になるという彼の夢は、そがれませんでした。

 ローレンス・ハモンドは、旋律を奏でることができず、楽器も演奏できないといつもこぼしていました。しかし、ドレスデンに住んでいた幼いころに音楽の影響を受け、1909年にアメリカに戻った後にエヴァンストンで聖ルークの監督教会で侍祭として仕え、再び音楽との接点を持ちました。

 エンジニアリング、科学および発明は彼の夢でした。彼がまだ16歳だった時に改良型の気圧計の特許を取得したのですが、この気圧計はたった1ドルで売ることができたにもかかわらず、床と机の上面の標高差を観測することができるほど感度がよく、海抜0メートル以上の気圧を計ることができました。
彼の発明は、時期早尚で市場のニーズとはマッチしていませんでしたが、300ドルを得ることができました。また、彼は同時に、発明だけでは十分でなく、発明を売るには購買者のマーケットが必要であるということを学びました。

 ハモンドはコーネル大学で機械工学を学びました。彼の興味の範囲は非常に広く、誤って高等電気工学の入学試験を受けてしまったのですが、パスしてしまったことからも、彼の才能がすばらしいものであったことは明白です。

 1914年の夏には、歴史的にも知られる戦争によって、世界中で血の雨が降りました。事の自然の成り行きで、様相は想像をはるかに超えて変わってゆきました。第一次世界大戦がなかったならば、ローレンス・ハモンドは、コーネル大学卒業時に入社したデトロイトのマッコード・ラジエータ会社(McCord Radiator Company)で、まだ、働いていたかもしれません。

 その代わりに、彼は軍隊としてフランスに行き、休戦後にアメリカに戻り、2年間、デトロイト(ミシガン州)の船舶用のエンジンのメーカーであるグレイ・モータ・カンパニーでチーフ・エンジニアとして働きました。

 しかしながら、戦争による中断によっても、彼の設計と発明への興味は少しも失われませんでした。
ぜんまい仕掛けの時計のカチカチという動作音に悩まされていた彼は、1920年に、うるさいモータを防音の箱に押し込めた、カチカチ音のない時計を発明しました。
この時計は、アンソニア・クロック会社(Ansonia Clock Company)によって出荷され、彼に発明者としてビジネスを始めるのに十分な資金と、彼の興味を時計の動作方法(単純な、しかし、正確な動作を、電気によってどのように実現するか)を思案する方向に向けました。

 戦争の三年後に、ハモンドがニューヨークのロフトを借りて、自分の研究所を設立した時に、ハモンドオルガンは、始まろうとしていたのかもしれません。
 そこで、彼は、電力会社から供給される60サイクルの交流を使用して動作する有名な同期式モータを開発しました。そして、そのモータは、後に標準となりました。

 翌年、1922年、小さく効率的なモータは、最初の3次元の映画の基本的エレメントとなりました。
 ハモンドは、人間の両目の距離だけ離した2台のカメラで、いくつかのシーンを映画にとりました。
スクリーンの上に映し出された時、2つのオーバーラップする画像は、単一の画像として見えました。3-Dの画像は、モータで駆動されるシャッターによって交互にそれぞれの目にシーンを提供したのです。
 このシステムはTeleview CorporationによってニューヨークのSelwyn劇場(Selwyn Theater)へ販売されました。

 聴衆と評論家からは、熱狂的な反響がありました。しかし、ベンチャーは、映画産業および聴衆からの継続的な支援が得られずに30日で崩壊していまいました。
 その後、彼はシステムを、接眼鏡をボール紙に替え、片方が赤、もう片方が緑のレンズに変更してより単純化し、経済的に作り変えました。
 この3-Dシステムは、1930年代、1950年代、1980年代にしばらくの間使用されました。

 1922年には、このシステムがZiegfeld Folliesの中で壮観な効果を得るために使用されました。また、1983年には、また、Jaws Illにおいて、リアリズムを表現するために、もう一度使用されました。
 Ziegfeld Folliesで得た収入によって、ハモンドおよび彼の新妻はヨーロッパへの贅沢な旅行をすることができました。
 1925年までこの収入は続きましたが、近いうちに父親になることと収入の打ち切りによって、新しい仕事をする必要が出てきました。
 いくつかの発明の失敗の後に、ハモンドとアンドリュース・ラジオカンパニーのE.F.アンドリュースはアンドリュース−ハモンド研究所を設立しました。

 彼らは、電池でも稼動し、家庭用の交流でも稼動するラジオを模索しました。
 解決策は、交流を直流に変換するA-BOXというものでした。
 発明は、すぐにエヴァンストン(イリノイ州)食料雑貨店の上の小さな研究所で生産に移されました。
 1926年に、ハモンドとアンドリュースの研究指向のチームは、セールスマンとしてエモリー・ペニー(Emory Penny)を雇いました。
 さらに、この時期には、ハモンド・エンタープライズにとって計り知れない組織上の、また、管理面での貢献をしたビジネスマンのフォレスト・レドモンド(Forrest H.Redmond)が雇われました。

 のちに、副社長のレドモンドとA-Boxの販売責任者としてのペニーは、ハモンドオルガンを業界のリーダーにするということにおいて、才能をすぐに発揮しました。
 ペニーの驚異的な販売能力もあって、壁のコンセントにラジオのプラグを直接さして使うことができるようになるまでの間に、175,000ドルの利益を得ることができました。
 1928年には、ジョージ・スティーヴンズ(George H. Stephens)がハモンドのチーフ・エンジニアになり、すべての製品が何年にも渡って顕著な品質を持っているという評判を築きました。

 彼は、時計から電気的なブリッジ・テーブル、電気オルガン、第二次世界大戦時の航空機コントロール装置までに及ぶすべての、ハモンド生産品の最終設計を担当しました。
 研究所で過ごした多くの時間にはぐくまれた彼の才能によって、ハモンドのかちかち音がない時計から考案された電気式時計と同期式のモータを完成させました。

 1928年に、ハモンドクロックカンパニーは、イリノイの州法の下に、販売責任者としてのペニー、部長としてのレドモンドと共に設立されました。
 工場はなおエヴァンストン食料雑貨店上のロフトでした。
 競争は激しかったのですが、ハモンドの財産はついに急上昇し始めました。
 ハモンドクロックカンパニーは、507,720ドルの利益を示しました。このころは、連邦の所得税額は、総計69,627ドルしかなかった時代です。

 ハモンドの時計において、たった一つの問題は、電力会社が安定した60のサイクルの交流の提供に対して無関心であったことです。
 解決方法は、ハモンドのセールスマンがすべての交流の周波数を担当するすべての電力会社の施設エンジニアに、ハモンドの電気時計をプレゼントすることでした。
 これによって、彼らの家の時計を正確に動作させるために、エンジニアは、発電所で設備のチェックを定期的に行うようになりました。

 世界恐慌の暗雲が接近していましたが、会社は1930年には繁栄していました。
 工場は、エヴァンストンからシカゴのレイバンスウッドアベニュー(Ravenswood Avenue)のプラントに引越し、その後、ノースウェスタンアベニュー(North Western Avenue)の2915番地のレンガ造りの5階建てのビルディングに引越しました。
 多くの企業が参入して供給過剰となり、その上、アメリカ人の所得も低かったため、電気時計のマーケットはどん底でした。

 1932年に150の時計会社が廃業し、在庫品は投げ売りされました。
 ハモンド・クロック・カンパニーも、その経済基盤を揺るがされました。
 リグリーチューインガムが、プレミアムとして89セントのプラスチックハモンド時計を50万個購入して支援しましたが、ハモンドの資金に対する影響は些細でした。
 会社は、時計セールスマンのリーダである、ウィリアムヘッツェンカー(William Hetznecker)によって倒産からかろうじて救われました。

 彼は、Postal Telegraph Company から受注した12から15インチの大きな時計の前金として75,000ドルを得ることができました。なお、この時計は、全米のいろいろなところで、いまだに正確に時を刻んでいるのを見ることができます。
 1931年の夏までに、多くの銀行は破綻し、何百万もの労働者は失業中でした。また、国家は、文字通り絶望の状態にいました。
 その春、スタンリー・ショーンセン(Stanley M.Sorensen)は、シカゴのSchurz高校(Schurz High School)を卒業しました。
 彼は計理士となることを希望しましたが、1週間当たり8ドルの賃金で、ハモンドクロックカンパニーの社内郵便配達を行うことで、とりあえず職に付きました。
 1955年に、ショーンセンはハモンドオルガン(Hammond Organ)の社長になる予定でした。

 ローレンス・ハモンドは、トランプを切り、4つの山に積む装置を完成し、ブリッジ・テーブルに、この機構を組み込みました。
 ブリッジ・テーブルの特許は1932年の11月に許可され、14,000個が作られました。そして不況時代のクリスマスに25ドルの価格で販売されました。
 国民所得が1929年レベルの60パーセントまで落ちたので、製造ラインは停止されました。

 ローレンス・ハモンドは、すばらしい記憶力を持った熱心で鋭いリーダでした。
 確かに、1933年までに、ハモンドには、電気的、又は電子的に音を生成することに関して本からの知識がありました。
 彼が新しいアイデアを考えた対象は、正確行うことが不可能でないにしても難しいという点に対してです。
 ローレンス・ハモンドが、音楽的な才能がないにもかかわらず、電気的な楽器の発明を行ったのは、彼の同期式モータを使用することができる製品であったためです。

 Westernアベニューのプラントの4階のテストルームから聞こえてくる蓄音機音とハモンドの3階の実験室から聞こえてくるきしむような異様な電子音は、文字通り、建物を震撼させました。
訓練された演奏家だけが、押し寄せてくる音の洪水の中から一つの曲を聞き出すことができました。
少なくとも1人の演奏家は、確かにそれができました。
 彼はシカゴ郊外のオークパークの聖クリストファーの監督教会のオルガン奏者であるウィリアムラーエイ(William L. Lahey)で、同時にハモンドの経理係でした。

 耳にとっては特につらい1日の終わりに、ハモンドはラーエイのところまで行って聞きました。「ビル、今日、いつもと違う音がしなかったかい?」ラーエイは、フルートのような音がしたのに気が付いたことを告げました。
 「そうか、電気フルートを作ったんだ。」とハモンドは答えました。
 フルートの音は、400年以上も前からの風を送り込む方式のオルガンの独走を止める、電気オルガンの起源となりました。

 三階の研究所から聞こえてきた、音楽の装置の核心部分は、トーンホイールジェネレーターでした。
ドル銀貨とほぼ同じ大きさのホイールは、電磁石の前で回転し、歯車のようなこぶ状の突起物が一定のパターンで刻まれたものでした。

 それは、確かに思ったとおりの動作をしたのです。
 磁石にワイヤーを巻きつけることによって、誘導電流の変化を拾い上げ、ラジオ・アンプの入力に流すことができました。
 これらの微小な電流をラウドスピーカーを駆動するレベルまで増幅し、部屋の空気を振動させ、人間の耳が音を聞くことができたのです。

 彼は、電気を発生するだけであれば、今まで何度となく行ってきましたが、音楽に使える正確な音に変換可能な電気の波形をどうやって作るかを、今まさに発見したのです。
 そして、基本的な装置は、同期式モータよって回す軸に取り付けた歯車と同じくらい単純なものでした。
 たった一つの周波数からなる一つの音程、又はそれぞれの音階の周波数だけからなる複数の音であり、音楽のエッセンスである複数の周波数から構成される音ではありませんでした。

 エンジニアのグループが、パイプオルガンの音を模写するという一見不可能な仕事のために集められました。
 ある時期には、倉庫をいっぱいにするくらいのトーンホイールジェネレータ、スイッチ、配線を確保しました。

 この装置は、なんとか音を出すことはできましたが、比較的低価格で、頑丈なつくりで、メンテナンスが楽で、しかも、望むべくは、タクシーの後席に積んで持ち運べる大きさでというハモンドの要求に合うものではありませんでした。

 中古のピアノを分解し、ローレンス・ハモンドはキーボードだけを再利用しました。キーボードのそれぞれのキーには、スイッチがつけられ、そのスイッチからは、2本の配線が引き出され、電子回路の迷路のなかに繋ぎ込まれました。
 この回路の迷路は、この大きな発明を進歩的な理論に結びつけるという次の発見に導きました。

 複数のワイヤーがまとめられ、一つのキーにつながれた時、新しい音が創り出されました。
一つの音がもう一つの音とブレンドされ、第三の音になり、より複雑な波形のパターンを生み出します。
 限りあるジェネレータホイールから何百万もの音を生み出すことができる、正しい配線の組合せが見つかるまで、別のジェネレータの音が加えられ、そしてまた別の音が加えられました。

 残りの1933年と1934年の仕事は、集中的で長いものでした。
 数ヶ月間の研究所での実験を経て、異なる形をもった91種類のトーンホイールで、人間の耳に最も心地よく、親しみ易いすべての音を創り出すのに十分であることがハモンドと助手たちによって結論付けられました。
 トーンホイールが異なる速度で回転することは必要でした。したがって、正確なギアを、一つのシャフトからそれぞれのホイールに力を伝達するために開発しなければなりませんでした。

 約100分の1馬力のハモンドの同期式モータは、シャフトを一定のスピードで回し続けました。
マニュアル上のキーが押された時だけ、一連のスイッチが、アンプとラウドスピーカーにトーンホイールの音を伝えました。

 例えば、1秒間に磁石を440回の割合で通過するホイールからの音は、国際標準の純粋Aの単一周波数の音となり、原理上は、音楽としての音と認識され受け入れられるはずでした。
 しかしながら、フルートの比較的純粋な音のように、作り出された音は、高調波をもったバイオリンなどの音を混ぜない限り、単調で耳ざわりでした。

 最初のハモンドオルガンの設計者は、上記のような別の音を作り出さなければならないことを知っていました。
 また、同時に、各音色が、ボリュームや強度としてコントロールされなければならないことを知っていました。
 解決策として用いられたものは、長期使用可能なパラジウム接触ポイントを備えた約1,500個の小さなスイッチと、中には人間の髪の毛と同じくらい細いものを含む8.5マイルに及ぶ配線でした。

 マニュアル上の各キーは9個のスイッチを同時に押しました。
 各スイッチはキーボード上に位置している異なるドローバーに接続されました。
 これがユニークなハモンドハーモニックドローバーであり、ハモンドのプレーヤーが基本音と上音を混合することが可能で、かつ音楽上の音のメランジュ中のそれぞれの構成要素のボリュームをコントロールすることができました。
 これは、現在では、「トーンバー」と呼ばれており、何百万もの異なる音を生み出すとことが可能になっています。

 最初のプロトタイプモデルのテストは、ラーエイが経理部門のオフィスから引越し、ベンチを持ち出して、ブラームスのFirst Symphonyを演奏した1933年に始まりました。
 すぐに、2人のオルガン奏者でもあるタイピストが雇われ、交代で来る日も来る日もその楽器を演奏しました。
 奇跡的な発明のニュースは漏れてしまい、世界中から来訪者がハモンドのウェスタン通りの工場に、発明された楽器の音を聞くために訪れ、称賛しました。

 冬が近づき、トーンジェネレータ、電子回路、音を混合するトランスフォーマ、アンプ及び音を出力するスピーカーのメカニズムを完璧にするためにすべての努力が集中されました。
 不運が、いま一度ローレンス・ハモンドに影を落としたように見えました。
 会計係の見通しによれば、1933年度に会社は約25万ドルを失うことになるというのです。
 1934年の1月までに、アクションをとらなければなりませんでした。
 ローレンス・ハモンドは「荷箱のプロトタイプオルガン」を荷造りし、ワシントン、D.Cのアメリカの特許局に、直接持っていきました。
 その建物の地下で、オルガンがセット・アップされました。

 特許局の職員は、いつもよりはるかに注意深くなっていました。
 彼らは、電気オルガンを発明しようとする過去の多くの試みを知っていました。
 また、それらは、労働者に仕事を供給するために、生産に移せそうな製品を後押ししようとしていました。
 オルガン奏者が演奏し始めるとともに、豊かな音色がビルディング中に響き渡り、上の階から音色に魅せられた人々を集めました。
 ハモンドの発明の独創性および価値が迅速な承認に結びつくだろうと予言することは決して難しいことではありませんでした。
 特許は1934年4月24日に、記録的に短い期間で、与えられました。

 1934年2月7日に、世界初の現実的な電気オルガンがシカゴに戻ってくると、すぐに、フォード・モーター・カンパニーからの二人のエンジニアがヘンリー・フォード自身の命令で到着しました。
 彼らは、フォード自動車の音楽好きな発明者の代わりに、電機オルガンを生産できるかどうかを調査するために来たのです。

 ハモンドオルガンを聴き、その設計を検査した時、彼らの仕事が既に行われていたことを知りました。
 フォードへの報告書は、まだ生産もしていなかった楽器に対して、最初のオーダをもたらしました。
 ラインから生産された第1号モデルは、公への宣伝のために使用されました。
 開発の最初の年に活発だったのは、ミルウォーキン・ジョン・ハナートでした。

 青年時代に、彼は、サイレント映画の伴奏をパイプオルガンを演奏して行っていました。その後、彼は、1930年代の初めに若干のデモンストレーションを行った真空管のオルガンを発明したキャプテン・レンジャーのために働いていました。
 1934年には、ハナートはハモンドオルガンの特許について知り、ハモンドのリサーチチームのメンバーになりたいと思いました。
 彼の音楽、電気及び電子エンジニアリングについての知識のために、彼は研究エンジニアとして雇われました。

 彼の創造的精神は多くのハモンドの革新 -- Solovox、ビブラート・システム、Extravoiceおよびペダル・ソロ・ユニット -- を生み出しました。
 彼のビブラート・システムは、ホイールタイプののトーンジェネレーターに使用された最初のビブラートシステムでした。
 彼の特許は合計57になりました。
 A-BOX以来の販売責任者であるエモリー・ペニーとジョン・ハナートは、新しいオルガンを公開する仕事に選任されました。

 でこぼこのフォード・パネル・トラックに製造された最初のユニットのうちの1つを積み込み、ニューヨークのラジオシティのあるRCAのビルディングで行われていた産業技術博覧会に出発しました。
 途中で、彼らはデトロイトに立ち寄り、会社の最初の顧客 -- ヘンリー・フォード -- のためにデモンストレーションを行いました。

 早起きのフォードは、ディアボーン研究所への道で早めに到着したペニーとハナートを出迎えました。 その道は、でこぼこの泥の道であったため、電気オルガンの耐久性を確かめる予期せぬロードテストを行うことになってしまいました。
 彼らは、しぶしぶ、指示された通りに、きらきら光るカシの木の床を持つ建物へトラックを入れました。彼らは、自動車王にオルガンの音を聴かせるために、そこで約半日待ちました。
 彼らの滞在(フォードの田舎者のバンドとまずい大豆料理でほとんど気が休まることなしの)は、予期しない六台のオルガンのオーダーをもらうということでやっと終了しました。

 フォードのオルガンのうちの一台は、ディアーボーンのフォードのグリーンフィールド博物館で、アメリカ産業の数多くの最初の製品を破壊した火事に遭遇するまで、四半世紀の間展示されました。
 その間、オルガンが使われないことは、ほとんどありませんでした。なぜなら、ヘンリーフォードは、彼の持つすべての工場に、そのオルガンを持っていき、さらに多くの価値のある主張に対して貸し出しをしていたからです。

 デトロイトからニューヨークへの道はまっすぐであり、1935年4月15日に、ハモンドの電気オルガンは、発表され、ほぼ満場一致の称賛が与えられました。
 ニューヨークの聖パトリック大聖堂のオルガン奏者であるピエトロ・ヨンと後のシカゴ・シンフォニーの指揮者となったフリッツ・ライナーは、交代で演奏しました。また、ジョージ・ゴシュインも演奏し、すぐに彼自身が使うための一台を注文しました。

 メトロポリタン・オペラスターのローザポンセルとジョバンニ・マチネリはその日、ハモンドオルガンの伴奏で歌いました。そしてそれを、ディームズ・テイラーが満足そうに見ていました。
 1935年の最初の数ヶ月においては、販売よりも、オルガンの生産と配達が問題でした。
 オルガンのデモンストレーションは、スケートリンクやレース場のような公共の場所で行われました。
 これらの公への展示は、ニュースの見出しとなり、楽器を普及することになりました。

 会社としての最初の広告はMUSICAL AMERICA誌の4月25日号で行われ、宣伝という言葉とは対照的な、企業イメージのためのメッセージとスタイルと用いました。「偉大な音楽上の発明」という言葉で広告は始まり、「ハモンドオルガンは新しい楽器です。しかし、既存のパイプオルガンの標準に適合し、演奏者にパイプオルガンの演奏技術を要求します。何も犠牲にすることなしに、古典的なオルガン音楽の大作を演奏するのに必要なすべてを提供します。」

 さらに、今までのどんな楽器でも、なしえなかった多くの音色を、作り出します。オルガンは、電球のソケットにプラグを差し込むだけでインストールが完了します。最初のデモンストレーション・モデルは、最初の一年間に全国民の前で、電球のソケットにプラグを差し込むことによって行われました。ペニーは、オルガンに対して、彼が今まで時計とブリッジテーブルに注いできたのと同じ情熱を注ぎ込みました。全国の音楽ディーラをあまねく訪れることによって、1,400台のオルガンの注文を得ました。

 最低でも1,250ドルという価格は、恐らく不況時代のバイヤーを落胆させるように見えていたでしょう。 しかし、従来のパイプオルガンと比較した場合には、価格は無視できました。そして、ハモンドは、即座にポピュラーな音になったことに加えて、強力なセールスポイントとなったのは、ハモンドオルガンは、調律を必要とせず、メンテナンス上必要なことは、1,2滴のオイルをさすことだけだという事実でした。

 ハモンドクロックカンパニーのロビーでの、新しい電気楽器の演奏で魅了された人々の一人にミルト・ハースがいました。彼は、その日、この奇跡を見るために、バス代に最後の15セントを費やしました。
 彼がラジオ放送局WINDでオルガン奏者としてオーディションを受けるために、インディアナのゲーリーにヒッチハイクで向かった、1935年8月の、少し後でした。

 彼は仕事を得ることができ、そして、30年の間、ハモンドと結婚していたようなものでした。WINDおよび他のラジオ放送局で行われたハースのスタッカート・スタイルでのハモンドの演奏は、急激に人気を得ました。また、そのスタイルは彼の卓越した特徴になりました。彼の1936年の「Stomping at the Savoy」の録音は、劇場、ラジオおよびナイトクラブでの主役としての、彼の評判を築くことに最も貢献した、一枚のディスクとなりました。

 ノバコードは、ローレンス・ハモンドの頭から離れなかった楽器です。このオルガンは、オーケストラのすべての音を、ラジオ用の真空管によって生成するというものです。
 1939年にニューヨークワールドフェアで、コリンズ・ドリッグスの演奏によって発表され、音楽界が長い間、望んでいたものを提供するように思われました。

 外観上はピアノに似ていて、この楽器は、ダンス・バンドと驚くほどの類似点によって音楽を生み出していました。
 しかし、大衆は、実際のバンドを見ることを明らかに好みました。その結果、この楽器は注目されることはありませんでした。
 ノバコードは、第二次世界大戦が勃発したときに、生産中止になりました。しかし、この最初の純粋な 電気オルガンは、ハモンドやすべての真空管、トランジスタ方式のオルガン楽器の前身となりました。
 この興味ある製品は1938年にハモンドの名の下で発表されました。

 なぜ、この楽器が興味ある楽器かというと、電気時代から一歩退き、古典的なパイプオルガンから風を借りるように見えたからです。
 それは回転プレーヤーオルガンでした。
 この楽器は、1937年のBC モデルのハモンドで、回転プレイヤーの機構を入れる背の高いケースに収められていました。この機構自体は、ボストンのAeolian Skinner Organ Companyとの合意によって使用したものでした。
 基本価格は、2,000ドルでしたが、自動オルガンに対して人々が期待する価格をはるかに超えていました。このモデルは1年で生産中止になり、生産台数は、100台でした。

 しかし、ハモンドカンパニーは、秘密の計画を持っていました。
 1940年に、Solovoxを発表しました。Solovoxは、ジョン・ハナートによって発明された電気的な機械であり、ピアノの伴奏やオーケストラの音のために使用されました。
 Solovoxは、真空管によって音をつくりピアノの鍵盤と似た3オクターブのキーボードを持っていました。しかし、実際の音域は6オクターブ以上ありました。
 12個のトーンセレクターを持ち、幅広い効果音を生み出しました。即座にピアノ演奏家やピアノ所有者の間で人気が出ました。

 3つのモデルが1940年から1948年までに出荷されましたが、その後生産中止となりました。電気オルガンの人気を支援した有名な女性にエセル・スミスがいます。物語は彼女がどこで最初にハモンドに出会ったかが異なりますが、ハリウッド映画の撮影現場であろうと、マイアミで休暇をとっていた間であろうと、エセルがハモンドに恋をしたことには変わりません。

 彼女が「最良に服を着て急いで駆けつけるように」と、ニューヨークのハモンドスタジオからの電話を受けたのは、セントリージスホテルで演じていた時でした。到着すると、彼女は、リオデジャネイロの上品なコパカバーナクラブの所有者に会いました。所有者は、彼のクラブで、魅力的な女性に26週間の契約で、ハモンドを演奏してほしいと思っていました。エセルはその仕事を望み、それを行うことになりました。彼女の観客は彼女の演奏を聴き、彼女は、南アメリカのリズムを勉強することに魅了され、彼女は一年ブラジルに滞在しました。

 彼女がニューヨークへ帰ったあと、セントリージスで演奏していた時に、一人の紳士に彼のテーブルに誘われました。その人はジョージ・ワシントン・ヒルといい、アメリカン・タバコ・カンパニーの伝説的なトップでした。彼は、リオで彼女の演奏を聞いており、彼の、土曜の夜のラジオ番組である「ザ・ヒット・パレード」に彼女が必要でした。彼女のキャリアが本当に始まりました。また、エセル・スミスには、ラジオ史上演奏家に対して払われた演奏料としては過去最高額が支払われました。

 彼女の録音 した「Tico、Tico」は、2百万枚以上を売り上げました。最初のハモンドオルガンの所有者が誰なのかという問題は、いつも物議をかもし出していますが、この名誉はジョージ・ガーシュインに与えられました。しかし、現実には、シリアル番号1のハモンドは、カンザスシティーに配達され、パセオメゾジスト教会に売られました。

 12年以上後に、エドワード W ポッツ師は、ハモンド社に手紙を書き、その中でこう言っています。「オルガンを維持する上で行ったのは、アンプ用の真空管を取り替えただけです。でも、近いうちに新しい缶入りのオイルが必要になるかもしれませんと付け加えました。」(パセオのオルガンは、後のモデルに取り替えられました。しかし、ハモンドのシリアル番号1は、なお演奏されています。)

 2500台のオルガンはモデルチェンジなしで生産されました。スェルとグレートのマニュアルは61鍵のキーがあり、25鍵のフットペダルがあります。36のハーモニックドローバーがあり、それぞれのマニュアルに9個のドローバーがあり、フットペダル用に二つのドローバーがあり、8'と16'のオルガントーンをコントロールできます。

 さらに、18のプリセットキーがあり、ハーモニックドローバーを変更することなしにオルガンの音色を即座に変更することができます。
 359ポンドの楽器は、スェル、グレート、ペダルキーボードをコントロールするエクスプレッションペダルを持ち、アジャスタブルな三つの鍵盤用のトレモロを一つ持っていました。

 これはすべて、コンソールかキャビネットの中に収められ、その大きさは、幅4フィート強、高さ3フィート、奥行き2フィートの大きさでした。「荷箱中の教会オルガン」は理論的に正確な記述でした。二つ目のモデルは、1936年に導入されましたが、ケースが新しくなり、ケースの木工細工が多少異なる点が唯一の違いでした。

 教会市場のための3番目のモデルは、事実上同じものでした。
 これらの初期のモデルによって、古い時計会社の経営状況は、1935年の38,256ドルの赤字から、1936年の228,393ドルの利益に転換し、1937年3月の年度終了時には465,680ドルの利益をもたらしました。

 1937年の始め、一連の新しいモデルが、導入されました。各々は特定のマーケットの要求を満たすために設計されました。
 1937年には、一般的には経済は不況でしたが、ハモンドのビジネスは急激に景気づいていました。
 ハモンド・クロック社は、なお時計を売っていましたが、オルガンが会社のビジネスの本質的な部分になることは明白でした。したがって、会社名は、今後作るかもしれない製品をカバーするために、ハモンド・インスツルメント・カンパニーに変更されました。

 追加プラント(工場)は、シカゴのブルーミングデール・アベニュー(Bloomingdale Avenue)、倉庫はジョージ通りで借りました。
 二人のハモンドの「マン・オブ・ザ・イヤー」について、その当時、語られることはほとんどありませんでした。
 ラジオの真空管を使って音を生成し、オルガンを完成させたトーマス・ジョージの努力は、実を結びました。また、彼は特許を申し込みました。
 しかし、その特許を使いたいというマーケットプランを持つ製造会社を見つけることができなかったので、彼は仕事を見つけるためにハモンドへ来ました。

 1943年に辞職するまで、彼は7年間ハモンドで働きました。数年間の交渉の後に、彼は、彼のオルガンを製造し、トマスの名前で売買することができました。彼は、約20年後に、コンサルタントとしてハモンドに戻りました。(トーマスオルガンカンパニーは、もはや存在しません。)
 1937年にハモンドスタッフに加わった、もう一人の従業員はジョン・A・ボルコーバー(john A.Volkober)で、使い走りとして出発しました。

 1965年に、ソレンセンが(Sorensen)が会長になった時、彼はハモンドオルガンカンパニの社長に任命されました。
 ハモンドのビジネスにとって平穏な日々が続きましたが、1937年のある日に爆弾が投下されました。
 それはハモンドの広告中のあるステートメントが正確ではないと主張する連邦取引委員会(FTC)からのいわゆる「規定」でした。

 告訴の内容は、一般的に言えば、ハモンドの楽器が「オルガン」ではなく、そして、「無限」の音色は生成できないと言うものでした。
 ローレンス・ハモンドは、喧嘩好きではなく、控えめでもの静かな発明者だったのですが、戦うことを決意しました。

 彼は音楽の歴史で最も驚くべき出来事の当事者になりました。
 FTCは、公平な討議会(パネル)を構成し、パネルの参加者が75,000ドルのパイプオルガンと2,600ドルのハモンドを聞き分けることができるかどうかを実験することにしました。
 両方の楽器の演奏者はスクリーンによって視界から隠されました。また、ハモンドのスピーカー・キャビネットはシカゴ大学の礼拝堂でオルガンパイプの中に隠されました。

 15人の学生と15人のプロの音楽家から構成されたパネルは、いくつかの演奏がパイプオルガンかハモンドの電気オルガンのどちらだと思うかを、書き留めるように依頼されました。

 これらの審査員は、30問中10問を誤り、その結果からハモンドは楽器分野において、十分で永久的な存在価値を示しました。
 FTCは、1年後に、次のように決定しました。「ハモンドは、その楽器をオルガンと呼ぶことができるが、音色の種類は、結局のところ、253,000,000通りであり、無限ではないため、無限という表現は使ってはいけない。」

 1940年のこれらの事件による不利益はほとんどなく、その年には、ローレンス・ハモンドの電気オルガンは、最も高い科学的かつ産業レベルの認知を受けました。
 彼はフランクリン研究所(Franklin Institute)のジョン・プライス・エセーレル(John Price Wetherell)メダルを受賞し、全米製造業者協会のモダン・パイオニア・アワードも受賞しました。

 1941年の真珠湾の年に、当分の間、ハモンドの生産を取りやめました。これは多くの企業が行った措置です。アメリカの宣戦は、ハモンドを軍需の生産前線につかせました。

 しかしながら、限定された数量の電気目覚まし時計の生産は行われ、1,400の「GI」用の電気オルガンも生産されました。これらは、世界中の船上および湾岸でのサービス要員のために生産されました。
 これらのオルガンの多くは、コーラスジェネレーター(1939-1942に生産された)を備えた教会モデルD(Church Model D)のメカニズムを持っており、病院、軍艦上などで、宗教的な又は娯楽上の機能を果たしていたことが戦時中の新聞などの展示物において、今でも見ることができます。

 戦時中に、ハモンドは、軍需のためにレイバンスアベニュー(Ravenswood Avenue)のプラントと研究開発用にオークリーアベニュー(Oakley Avenue)の建物を借りていました。
 ハモンドは、滑走爆弾用とノースラップフライングウィング用の多くの飛行コントロール・システムを設計し製造しました。
 また、空軍に滑走爆弾用のパイロットを訓練するためのフライトパス・シミュレータ・コンピューターを開発し寄贈しました。

 さらにローレンス・ハモンドと彼のエンジニアによって開発されたものは、爆弾のガイダンス用の赤外線と光センサーデバイス、コントロール・システム用の新型ジャイロスコープ、高速な空撮カメラ用の機械式シャッタ、単純で安価な傾斜・回転指示器、飛行高度計測用の使い捨て装置などがあります。

 高度計測用の使い捨て後の装置は、飛行機から落とされ、それが地面か水面に衝突するまで無線信号を発信するものでした。落下時間が飛行機の高度を示します。
 ブルーミングデールアベニュー(Bloomingdale Avenue)の木工プラントは、「GI」用のオルガンのためにキャビネットを製造し、残りの時間に棺を製造するという政府契約の下で運用されました。
 ハモンドオルガンは、第二次世界大戦中に尊敬と友情の多くの歌を演奏しました。

 トラックにマウントされた1つは、南太平洋のニューカレドニアの島をすべて旅しました。
 自分たちのドラムの音だけを知っている住民は、驚きの中で、不思議な音を聴くために潅木から出て来ました。
 寒いアリューシャン列島前哨では、ハモンドが礼拝堂およびレクリエーション・ホールの中で演奏されました。

 それはシアトルに船を送り出し、ウェストコーストの銃の砲列をつかさどる軍隊の単調を取り除き、わずか侵入の2週間後に沖縄においてルーズヴェルト大統領の追悼式のために演奏しました。
 ハモンドがあったところならどこでも、それを演奏する人の不足はありませんでした。軍隊のピアニストは、電気的なオルガン演奏技術をマスターするのに問題は、ほとんどありませんでした。
 多くの人が、戦争の後にオルガンを買うための基金をつくるため、服務期間中にわたって、資金を母国に送りました。

 ハモンド・カンパニーは、迅速に民需用の生産に切り替わりました。
 オルガンは、多くの追加が行われ、戦争の後に大きく改善されました。

 新しいオルガンにおいて最も特徴的な機能は、多くの試みにもかかわらず達成することが困難だったビブラートでした。
 ビブラートは、1946年から家庭用および教会モデルの両方で利用可能となり、1949年には、両方のマニュアル上でそれを同時に使用するか、あるいは片方のマニュアル上で別々に使用することができるように改善されました。

 さらに、1949年には、コンサートオルガンモデル(Model RT)が導入されました。
 この楽器は個別のボリューム・コントロールを持ったユニークなペダル・ソロ・システムが組み込まれていました。
 戦争の終了以来、オルガンの販売が増えたことと多様化によって、オフィスおよび生産スペースの増強を必要としました。
 解決策として、Diverseyアベニュー(Diversey Avenue)4200のビルディングをハモンドカンパニーは購入しました。このビルディングは、その後、拡張され、会社のメインオフィスとして、現在も使用されています。

 1949年は、現代のオルガン産業年鑑において、市場および製品の両方の概念を書き換えるターニングポイントを迎えました。
 以前は、ハモンドオルガンやその競合会社は、家庭での使用を第一には考えていませんでした。
 多くのハモンドオルガンが家庭で使用されるようになったので、ハモンドの幹部は、未開発の市場である平均的なアメリカの家庭が目の前に広がっているという結論を導き、再びオルガン産業をリードしました。

 ハモンドのスタッフは「シンデレラ」のオルガンを設計し、製造し、それがオルガン産業における王座に君臨するのを見ました。
 新製品はハモンドスピネット・モデルMでした、新しいスピネットオルガンを見た人々は、居間か娯楽室に置かれることを考えたサイズ(最初のハモンドであるモデルAよりわずかに小さい)が完璧に計算されたものであることを認識しました。
 また、アンプやスピーカーなどのスペースの必要はありませんでした。というのは、これらはすべてコンソールに収容されたからです。

 スタイルは機能的で魅力的でした、音は「本物のオルガン」であり、価格は、1,285ドルでした。この価格は、12年以上も前のハモンドより35ドル高いだけでした。
 ハモンドスピネットは、ハモンド標準の61鍵の代わりに、2つのマニュアル共に44鍵のキーボードを持っていました。

 多くの潜在的な購買層は、これに対して狼狽しませんでした。彼らは、家の中にオルガンがあることを望みましたし、それが、ここに、ありました。
 彼らは、2つのマニュアルと12ノートのペダルボードを演奏することを学び、彼らは、友達との娯楽のために、演奏する方法を学びました。

 これらの人たちの中から、多くの人たちが熟練したオルガン奏者になり、より大きくより用途の広いハモンドモデルのためにスピネットを下取りに出しました。
 スピネットは、他のハモンドオルガンのように、戦艦のように頑丈に製造されました。

 小さな教会はそれらを購入しましたし、また、大きな教会は礼拝堂の中でそれらを使用しました。
 そして、ハモンドの競合たちは、即座に小さなオルガンを製造し始め、リーダのイミテーションとして、市場に投入し始めました。
 6年間で、ハモンドはそれ以前に生産した通常のオルガンより多いスピネットを、販売しました。

 スピネットは、友達や近隣の人をも呼び込みました。
 ハモンドオルガン所有者のこれらの会合は、楽しみとレクリエーションのためのハモンドオルガン協会の自発的な結成に結びつきました。
 活発な人たちは初期のハモンドオルガン協会を構成し、アメリカ中で何百ものクラブが、なお活発な活動を続けています。

 オルガンは、どこまでシンプルになるのかという疑問を持っているすべての人のために、ハモンドは次のような回答を用意していました。その翌年のコードオルガンがそれです。このオルガンは、数分で演奏することができました。
 非常に単純で実用的なために、マーケットは既に開かれていました。
 シンプルなことと975ドルという魅力的な価格のために、多くの家庭はピアノとハモンドオルガンを比較検討し始めました。

 このオルガンは、オルガニストを養成するためのオルガンとしてではなく、単純に楽しむためのオルガンとして演奏されました。
 コードオルガン(Model S)は、37鍵のキーを備えた単一のマニュアルを持っていました。

 さらに、左手を使って押すことのできる96個のボタンを持っていました。これらのボタンは、コードを演奏することができました。
 さらに、二つのペダルを持っており、この二つのペダルを使って、コードのルートか5度の音を演奏することができました。
 初心者が簡単に演奏できるように、特別な楽譜が開発されました。

 ハモンドコードオルガンを演奏することは、道路地図を読むのと同じくらい簡単であり、地図が得意でない人たちにとっては、はるかにやさしいものでした。
 ハモンドコードオルガンの音は、ハモンド標準の電気機械的なジェネレーターを使用したものではなく、真空管を使用したものでした。しかし、Solovoxの回路類の一部は新製品に組み込まれました。

 数百万ドルが広告に費やされ、スピネットというコードオルガンを見てもらうために、ディーラに人々を出向かせるために費やされました。
 ディーラーは、以前にミシンで行われて成功した方法である、購入者に対して限られた回数の無料レッスンを提供しました。

 新しいオルガン所有者へのオルガン講師が会社の主要なスポークスマンになるだろうということを悟って、ハモンドは、ポーター・ヒープスの指導のもと、1951年に講師のワークショッププログラムを確立しました。

 1日間の講師ミーティングは、3年間に200回行われ、約6,000人が参加しました。
 そこでは、初心者に対して自信をつける方法と、上達してきたときに最初の熱意を維持するための方法などが教えられました。

 ハモンドは、オルガン講師に対しての多くのプログラムを改善し、提供し続けます。
 当初から、ハモンドオルガンは、音楽講師およびプロフェッショナルの音楽家の忠告および支援に支えられてきました。
 新しいモデルは、かれらエキスパートのパネルでの批判および提案にさらされます。
 1953年には、会社名がハモンドオルガンカンパニーに変更されました。

 増大する取引をより効率的に扱うため、駐車場用と将来の拡張を行うための土地を、1956年にシカゴの西部郊外のメルローズパークに購入しました。
 スピネットオルガンの導入以降は、新製品の開発ではなく、既存製品を洗練することに集中しました。

 しかしながら、競争が急激に厳しくなっていることと、成長している市場から利益を得るためには、新しいオルガンや先進的なオルガンが必要なことが明白でした。
 いくつかのステップにより行われたディーラーの拡張を通して、ハモンドのディストリビューションチャネルを広げることになりました。また、ハモンド・オルガン・スタジオの設立に重きがおかれました。

 同じ時期に、店外での販売促進が強化されました。これは、家庭でオルガンを持つということが、ほとんど知られていないか、知っていたとしても、オルガンを演奏することが難しいと思われていたために、自分にはふさわしくないのではと感じている人が多くいる、という認識があったためです。

 これは、今のオルガンセールスにおいて優位を占める理由となった「店外での販売促進」と「簡単な演奏」というテーマの始まりだったのです。
 ハモンドは、オルガン製品において挑んだのではなく、新しい産業を興すために挑みました。

 電気オルガンは、ハモンドの同意義語であり、トーンホイールジェネレータは、その性質上、決して調律がずれません。
 ハモンドは辞書、百科事典およびテキストブックで使用される単語になりました。

 1955年には、最初のパーカッションモデルが、モデルB-3、C-3、RT-3およびM-3に導入されました。
 ハモンドのパーカッションは、特にジャズにおいて、世界的に有名になりました。
 ボリュームと減衰をコントロールすることができる、第二、第三のハーモニクスの強調は、プロでも初心者でも同じように、多くの音を作成することが可能になりました。

 モデルB-3は、オルガン産業において最高の販売実績を誇るコンソール・モデル・オルガンとして、いまでも記録されています。
 1939年にローレンス・ハモンドは、リバーブのコンセプトを思い描きましたが、1959年に新しく開発されたドライリバーブユニットが出るまで、この領域で実用的なソリューションを提供されることはありませんでした。

 この時期までは、オイルをいっぱいに詰めた管を使用してリバーブ効果を得ていましたが、コンソールの中に組み込まれることは禁止されており、トーンキャビネットの中に入れることしかできませんでした。

 1960年(大きな進歩のあった年)は、ハモンドオルガンにとって、その聴衆と市場を拡大した出来事と革新があった年として記録されています。
 世界的に有名なシカゴの科学産業博物館において、物理学上の音と芸術としての音を取り上げたハモンドの展示が行われました。

 何年間にも及び、何千もの児童および大人が訪れ、人々が好む音楽を作る空気と電気の波の視覚的、聴覚的な自動化されたディスプレイを操作しました。
 ローレンス・ハモンドは、生物学上の偶然ではなく、意思による管理上の成功を信じました。

 1955年にローレンス・ハモンドは、研究に専念するために、社長職を放棄しました。
 1960年2月12日に、ファンファーレや公の送別なしで、65歳のときにディレクターと会長を辞任しました。
 かつてショーンセン(Sorensen)は、ローレンス・ハモンドを理想的マネージャーであると称しました。
 なぜ?
 「彼は人々を信頼しました。」
 ローレンス・ハモンドは、引退後、コネチカットのコーンウォールで過ごしました。
 110の米国特許を持つハモンドは1973年7月3日(火)に78歳で亡くなりました。
 彼のリーダーシップなしでも、ハモンドは、繁栄し時勢とともに変化することを継続する会社を設立し、確立しています。

 1960年代は、オルガン産業とハモンドカンパニーへのいくつかの注目すべき進歩を生みました。1960年に、最初のオールインワンのコンソール・モデルA-100を発表しました。
 ほとんどの人にとって、外部アンプとスピーカーなしで、B-3のほとんどの機能を持つことができる初めてのモデルでした。

 最初のペデストル型のデザインであるX-66は、1965年に紹介されました。
 この根本的に新しいデザインは一夜でセンセーションを起こしました。
 業界における最初のコンポジットトーンジェネレータは、トーンバーと電子タブを持ち、新しくユニークな音を生み出しました。

 X-66は、10,000ドルというそれまでになかった価格であったため、60年代のエンターテイナーだけでなく、自分用のオルガンがほしいという個人にとっても非常にポピュラーな存在となりました。
 さらに、60年代には、レズリースピーカー内臓の最初のハモンドが生産されました。

 今、初心者が長い間望んでいた、大きなトーンキャビネットなしに同じ音が出せるオルガンが、ホームオルガンによって実現されました。
 1970年に、最初の自動伴奏楽器であるPiper Autochord Rが業界に導入されました。
 その祖先であるハモンドコードオルガンと同じように、Piperはシングルキーボードの楽器であり、趣味として使用される製品でした。

 Piperは、ペダルがなくコードボタンも特色としませんでしたが、代わりに、プレーヤーは、適切なリズミカルな伴奏と共に自動のベースパートを演奏できました。
 Piperと共に、ハモンドからの別の新しいマーケティングコンセプトが出てきました。パイパーレット(Piper演奏者)が、ローズマリー・ベイリーによって採用されトレーニングを受けました。

 これらのパイパーレットを構成する若い女性は、すべてのショッピング・モールや多くの人たちが集まる場所に繰り出しました。
 Piperは、オルガンビジネスにおける商品化計画の先駆者であり、ハモンドコードオルガンより20年も前の技術が使用され、開発されたものでした。

 何年にもわたって、世界市場で製品を販売するために、国際的な企業を設立して、成長を継続するために多くの変革がハモンド・カンパニーにとって必要でした。
 技術変革に合わせて、設備の再編成を行い、効率的な生産技術が使用されました。

 1972年まで、ハモンドカンパニーは著しく変わっていきました。
 オリジナルのトーンホイールは旧式になっていました。
 新しく開発されたLSI(大規模集積回路)技術は、より少ないスペースで、より低コストで、新しいサウンドを作り出しました。
 これらの新しい技術を取り込んだ最初のオルガンは「Phoenix」と呼ばれ、その年に、「Concorde」と呼ばれた新しいデラックスなコンソールが続きました。

 最先端技術は、ハモンドのダイバーセイアベニュー(Diversey Avenue)の設備および他のハモンドプラントで作られました。
 トーンホイールの組立てラインはますます旧式になりました。

 1975年まで、トーンホイールオルガンが作られました。
 一つの時代の終り-最後のB-3が組立てラインで生産されました。
 トーンホイール・ジェネレーターがもはや生産されなくなったので、最終組立てが主要な役割であったメルローズパーク(MeIrose Park)の設備が1976年に閉鎖され、ダイバーセイの工場に設備が移動されました。

 ブルーミングデール通り(Bloomingdale Avenue)の木工設備も第二次世界大戦後にオルガンキャビネット、時計および棺を製造していましたが、長い間、時代遅れのままでした。
 問題を解決するために、新しく高度に先進的な木工設備をオープンすることにしました。その設備は、アメリカで最もモダンな木工設備を有するプラントになります。
 1978年に、その、Bloomingdale通り(Bloomingdale Avenue)のプラントは閉鎖され、Sikestonのプラントが操業を開始しました。1973年には、プロダクトサービスとパーツ用の倉庫としてフランクリンパークの設備をオープンしました。

 施設の拡張は、1974年に、そして、もう一度1983年に行われました。
パーツおよび製品はすべて、この倉庫に入れられます。
ローレンス・ハモンドによって知られるようになった業界は、その当時とは完全に異なっていました。
トラディショナルな特徴(トーンバー、色が逆につけられたプリセットなど)の多くは、なお継承されましたが、音自体は最新の技術によって製造されています。

 ハモンドカンパニーは、マーケティングの結果によって、ハモンドサウンダを500ドル以下で、楽器店だけではなく、ディスカウントショップやカタログでも販売するというマスプロの商品化計画にチャレンジしました。
 70年代中ごろに、ハモンドオルガンは、Marmonグループ(Marmon Group)の一部になりました。

 この先端技術の時代に、巨大複合企業の一部であるという利点はMarmonグループの自律的な組織として実現されました。ハモンドオルガンカンパニーは、現在の社長であるDonald R. Sauveyのリーダーシップのもとに運営されています。

 Sauvey氏の第一のゴールは、1934年に確立した戦艦のような造りという名声を得る品質管理に戻るということでした。また、それは、エンジニアリングと製造において最新の技術を開発し、それを維持していくということでした。

 これらのゴールが次々に実現されていることは、Compose-A-Chordや、組み立て部門でのプリント板の製造技術などによって明らかです。ハモンドカンパニーにおいていくつかの歴史的に重要な事柄は、業界において重要な地位を占める二つの会社を買収したことです。

 Gibbs Manufacturing and Research Company(オルガン産業だけでなく音楽産業全体にわたって使用されるリバーブユニットのメーカー)は、Accutronics mastheadの下でハモンドファミリの一部になりました。

 もう一つはAccutronics社の一部であるプリント板部門です。最先端の設備を使用してハモンドオルガン、ハモンドの子会社、および他の電子製品を作る会社にPCボードを生産しています。

 ハモンドオルガンの発明の少し後に、ドン、レズリー(Don Leslie)という独立系の発明家が、1937年に購入したハモンドオルガンの音に失望して、スピーカキャビネットを設計しました。

 大きなホールの中で使用された時、オルガンの音響が著しく改善されたことを思い出して、彼は「ホール」効果を生み出すために音の反響および動きについて実験を始めました。

 頻繁に模倣されてきたが、まったく同じものはできていないという音は、ハモンドとレズリーの連携によって生まれます。
 レズリースピーカを生産するElectro Musicは、1980年にそのAccutronics部門の下でハモンドの傘下に入りました。

 技術的な優位性がとんとん拍子に維持されながら、ローレンス・ハモンドの開発した、その当初から追求していた伝統的でオリジナルなハモンドの音を保持しながら、内部コンポーネントのミニチュア化を伴い、高度にコンピューター化された新技術の分野にしっかり食い込むことが、ハモンドカンパニーの意図です。

 国際的な会社として、ハモンドオルガンは、全世界の至る所でよく知られています。
ハモンドオルガンは、ジャングルの僻地、北極および南極地域、そして文字通り人が生活しているところであれば、どこでも、見つけることができます。

 アメリカの設備に加えて、1964年には、ロンドン郊外のミルトン・ケインズにハモンドオルガン(U.K.)株式会社を設立しました。
 ハモンドオルガンU.K.は、イギリス全土に商品を販売します。
1969年に、ハモンドインターナショナル・カナダ株式会社は、ハモンドオルガンの全ラインナップを製造し、販売するためにトロントに設立されました。

 日本の大阪の阪田商会株式会社との提携により、1970年に日本ハモンド株式会社を設立しました。これは、ヨーロッパの多くと極東にオルガンを供給するジョイントベンチャーです。

 最新の販売施設であるハモンドオルガンオーストラリアは、1982年にオープンしました。
 これらのハモンドの国際会社およびそれらによって確立している販売契約のネットワークによって、ハモンドという名前は、継続的に世界中で知られ尊重されることになります。

 ハモンドオルガン物語は、エヴァンストン食料雑貨店上のロフトの中で始まりました。
 所有者と演奏者はアメリカの生活のすべてのエリアに及びます――以前の大統領、野球選手、有名な芸能人、過去50年にわたってハモンドオルガンをプレーした、多くのプロのオルガン奏者、もちろん、家庭での趣味としてのオルガン奏者、彼らによって、1,000,000以上のハモンドオルガンが、最初のモデルであるModel Aが1934年に特許事務所にその姿を見せて以来、製造され販売されてきました。

 1934年にハモンドオルガンを発明し、オルガン業界を作り出した会社は、その高品質な製品に対する世界的な評判を享受し、有効に統合され変化する組織として発展しました。
 また、現在の組織と、買収による新しい会社での開発の両方で継続的に成長していきます。
 その可能性に限界はありません。

ハモンドオルガン

「模倣は多いが、超えるものはない。」